成立後の来歴とは? わかりやすく解説

成立後の来歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 15:29 UTC 版)

絹本著色後醍醐天皇御像」の記事における「成立後の来歴」の解説

十二代尊観上人系図』の「御灌頂相承次第」は、本作品の成立後の来歴を載せる。これによると、文観のあと、まず醍醐寺座主とされる一品深勝法親王の手渡り次に同じく醍醐寺座主とされる二品杲尊法親王の手渡った。しかし、『醍醐寺新要録』等にはこの二人座主記載されないため、内田啓一は、当時北朝醍醐寺座主南朝醍醐寺座主並立しており、この二人南朝醍醐寺座主だったのではないか推測している。 その後南北朝合一してから4年後の応永3年1396年8月1日、杲尊が第12代遊行上人時宗の長)の尊観渡した伝えられる尊観は、『十二代尊観上人系図によれば亀山上皇後醍醐祖父)の皇子恒明親王の子で、前述した深勝の弟に当たり、後醍醐からは又従兄弟となる。なぜ真言宗宝物時宗に渡ることになったのか、理由書かれていないため、定かではないが、内田は、南北朝合一後の京都に渡ると何か不都合があると危惧されており、そのため、時宗僧侶として動きやすく旧南朝皇族でもある尊観渡したではないか推測している。 事実尊観はまだ南北朝の内乱収まらない元中4年/嘉慶元年1387年)に遊行上人となってから遊行布教のための諸国行脚)中であり、応永3年1396年当時京都周辺布教中だった。同年尊観京都御所後小松天皇謁見しており、この時の謁見きっかけで、時宗歴代遊行上人は、南朝門流として宮中自由に参内できるようになった伝えられる。ただし、遠山元浩は、尊観本当に南朝皇族だったかどうかについて、どちらかといえば肯定的ではあるものの、「時宗過去帳」の当該時期では南朝元号ではなく北朝元号用いられていることを指摘し今後確かな精査も必要であるとしている。とはいえ応永23年1416年4月3日、第4代将軍足利義持守護命じて時宗関所通過する自由を認め御教書案が残っており(「清浄光寺中世文書」)、当時時宗室町幕府から格式の高い宗派と見なされて庇護受けたのは確かである。遠山によればこうした時宗隆盛および旧南朝との接点によって、旧南朝勢力から尊観渡ったのであるという。 この約120年後の戦国時代永正14年1517年3月21日模本である『紙本著色後醍醐天皇御像』作成され、この当時模本通して時宗崇拝対象として崇められた(#『紙本著色後醍醐天皇御像』)。模本画面両端には別紙が貼られた形跡があり、これは絹の御簾軟障ぜじょう))をかけて礼拝されていたことに由来すると見られる作品本体あまりにも崇高畏れ多いため、模本作成して代わりにそれを崇めるという形式は、時宗歳末別時念仏会で使われる熊野成道図』にも見られる。なぜこの作品時宗重要視されたのかと言えば仏教学上、天照皇大神大日如来八幡大菩薩時宗の主要信仰対象である阿弥陀如来、そして春日大明神阿弥陀補佐する不空羂索観音対応するからであると見られる。さらに時宗中興の祖である尊観後醍醐親戚であることを通じ時宗尊観上人後醍醐天皇天照皇大神大日如来という図式成立し宗派全体崇拝対象になったのだと考えられるその後明治33年1900年4月7日、『官報』第5026号の内務省告示32号により、「絹本著色後醍醐天皇御像」の品目で、当時国宝丙種絵画)、後の重要文化財指定された。

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