成立後の来歴
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「絹本著色後醍醐天皇御像」の記事における「成立後の来歴」の解説
『十二代尊観上人系図』の「御灌頂相承次第」は、本作品の成立後の来歴を載せる。これによると、文観のあと、まず醍醐寺座主とされる一品深勝法親王の手に渡り、次に同じく醍醐寺座主とされる二品杲尊法親王の手に渡った。しかし、『醍醐寺新要録』等にはこの二人は座主と記載されないため、内田啓一は、当時は北朝の醍醐寺座主と南朝の醍醐寺座主が並立しており、この二人は南朝の醍醐寺座主だったのではないかと推測している。 その後、南北朝が合一してから4年後の応永3年(1396年)8月1日、杲尊が第12代遊行上人(時宗の長)の尊観に渡したと伝えられる。尊観は、『十二代尊観上人系図』によれば、亀山上皇(後醍醐祖父)の皇子恒明親王の子で、前述した深勝の弟に当たり、後醍醐からは又従兄弟となる。なぜ真言宗の宝物が時宗に渡ることになったのか、理由は書かれていないため、定かではないが、内田は、南北朝合一後の京都に渡ると何か不都合があると危惧されており、そのため、時宗の僧侶として動きやすく旧南朝皇族でもある尊観に渡したのではないかと推測している。 事実、尊観はまだ南北朝の内乱が収まらない元中4年/嘉慶元年(1387年)に遊行上人となってから遊行(布教のための諸国行脚)中であり、応永3年(1396年)当時は京都周辺で布教中だった。同年、尊観は京都御所で後小松天皇に謁見しており、この時の謁見がきっかけで、時宗の歴代遊行上人は、南朝門流として宮中に自由に参内できるようになったと伝えられる。ただし、遠山元浩は、尊観が本当に南朝皇族だったかどうかについて、どちらかといえば肯定的ではあるものの、「時宗過去帳」の当該時期では南朝元号ではなく北朝元号が用いられていることを指摘し、今後の確かな精査も必要であるとしている。とはいえ、応永23年(1416年)4月3日、第4代将軍の足利義持が守護に命じて、時宗に関所を通過する自由を認める御教書案が残っており(「清浄光寺中世文書」)、当時の時宗が室町幕府から格式の高い宗派と見なされて庇護を受けたのは確かである。遠山によれば、こうした時宗の隆盛および旧南朝との接点によって、旧南朝勢力から尊観に渡ったのであるという。 この約120年後の戦国時代、永正14年(1517年)3月21日に模本である『紙本著色後醍醐天皇御像』が作成され、この当時、模本を通して時宗の崇拝対象として崇められた(#『紙本著色後醍醐天皇御像』)。模本の画面両端には別紙が貼られた形跡があり、これは絹の御簾(軟障(ぜじょう))をかけて礼拝されていたことに由来すると見られる。作品本体があまりにも崇高で畏れ多いため、模本を作成して代わりにそれを崇めるという形式は、時宗の歳末別時念仏会で使われる『熊野成道図』にも見られる。なぜこの作品が時宗で重要視されたのかと言えば、仏教学上、天照皇大神は大日如来、八幡大菩薩は時宗の主要信仰対象である阿弥陀如来、そして春日大明神は阿弥陀を補佐する不空羂索観音に対応するからであると見られる。さらに時宗中興の祖である尊観が後醍醐の親戚であることを通じ、時宗=尊観上人=後醍醐天皇=天照皇大神=大日如来という図式が成立し、宗派全体の崇拝対象になったのだと考えられる。 その後、明治33年(1900年)4月7日、『官報』第5026号の内務省告示第32号により、「絹本著色後醍醐天皇御像」の品目で、当時の国宝(丙種・絵画)、後の重要文化財に指定された。
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