成立時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 03:52 UTC 版)
武田幸男によると、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)が登場したのは、『三国遺事』と『帝王韻記』が著作される13世紀末期以前であり、『三国遺事』が拠る『古記』と『帝王韻記』が拠る『檀君本紀』は『三国史記』より古く、『三国史記』が拠る『旧三国史』系統の記事であることから、11世紀以前とする見解が多く、契丹の高麗侵攻の頃に形づくられ、モンゴルの高麗攻略の際に高い関心を引いて、朝鮮民族が巨大な苦難に直面するときに、民族統合の精神的エネルギーとなった。田中俊明は、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)はモンゴルの高麗侵攻時に、抵抗の拠り所とすべく成立されたとする意見を、外圧によってナショナリズムが覚醒するのは歴史の常としつつ、「檀君神話は、成立が少し遅れる『帝王韻記』にもみえており、『三国遺事』とは別の典拠があったようにみえる。その典拠の成立は、少なくとも、10世紀までさかのぼらせることが可能であり、とすれば、あらたに形成された伝説であっても、モンゴル侵入とは無関係であったと考えざるを得ない。そしてその場合、民族自尊の意識という点では、契丹の侵入がその背景にあったとみなすことができる。ただし、モンゴル侵入期においても、民族統合のシンボルとして機能したことは十分に考えられる」とする。 矢木毅は、『漢書』地理志をはじめ中国史書にも檀君朝鮮に関する伝承はただの一言も触れられておらず、檀君朝鮮を伝える文献が存在しないことから、それらの史書が作られた当時は、檀君朝鮮の伝承が成立していなかったと考えるのが自然であり、檀君朝鮮の舞台は、太伯山と阿斯達であり、これらは平壌の周辺に存在するが、平壌の地は統一新羅の領域外であり、高麗の初代王王建の北進政策により、高麗の領域に入ったにすぎず、従って高麗中期に平壌に存在した土俗的な信仰から創出された後世の説話であることが「定説」となっていると述べている。 井上直樹によると、韓国において琵琶形銅剣と支石墓の分布範囲に基づく檀君朝鮮の研究成果からは、『三国遺事』と『帝王韻記』にみられる檀君朝鮮記事は首肯しがたい状況であるという。日本では、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)は平壌に伝わる信仰と仏教と道教要素が加味されたものであり、『三国遺事』と『帝王韻記』は、『三国史記』が拠る『旧三国史』の檀君朝鮮記事を引用しているため、10世紀〜11世紀頃の契丹の高麗侵攻時代に形作られ、モンゴル軍の高麗侵攻時代など朝鮮民族が受難を迎えた時に民族統合のエネルギーとなったのが「通説」であり、「そこから歴史的事実を追究するのは困難である」と評する。
※この「成立時代」の解説は、「檀君朝鮮」の解説の一部です。
「成立時代」を含む「檀君朝鮮」の記事については、「檀君朝鮮」の概要を参照ください。
- 成立時代のページへのリンク