信仰の対象として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 06:22 UTC 版)
カルデラ中央部が開析され、火山岩頸である大黒岩(獅子岩)が岩塔として山の中央にそそり立つ山容は、中世から修験道による信仰を受けてきた。山中には「護摩壇」「昏夜の久保」「十二」「浅間」「仏岩」「梵字岩」などの固有地名や石祠が散在し、修験道の山岳信仰の名残りとみられている。 南山麓の扇状地の付け根にあたる唐沢沿いには子持神社が鎮座する。社伝では崇神天皇ないし嵯峨天皇の時代の創建とし、『神道集』は安濃津の子持御前による創建を伝う。かつての祭神は児持明神といい、いまの主神は磐筒之女命と木花之佐久夜毘売といずれも女神である。女神を祀るのは、山容を女体ないし女性器にみたてたものとする説もある。社殿近くには女神と子どもの足跡と伝わる「仏足跡(女神の足跡)」がある。 国家鎮護と受胎・安産の神として崇敬を集め、戦国時代には上杉憲顕、武田信玄、北条高広、真田昌幸らが参詣したり、寄進や保護を与えたとの史料が残る。子持山の裾野では上杉謙信と武田信玄との合戦もあったとされ、武田勢は上杉勢の水源になっていた小川に毒を流し、勝利を得たと伝わる。その場所にはのちに不動尊が建立され、その法力によって毒が消されたといい「毒水よけの不動尊」と称する。江戸時代には山麓や近傍の村に社領を有したが、周囲は沼田藩や幕府領・旗本領などが混在し、入会地としての利用をめぐって各村や神社とのあいだで紛争が耐えなかった。 明治の神仏分離と廃仏毀釈によって修験道の性格を失い、子持神社となった。社格制度では郷社に列せられている。かつて山伏が利用した山道が登山道となっている。例祭日は毎年5月1日と定められており、この日が子持山の山開きとなっている。 詳細は子持神社参照。
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