信仰の形成
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蒿里山は鬼神の山として、泰山にあり民衆に懼れられつつも信仰されてきた聖地である。 『泰山小史』の記述は在りし日の蒿里山を伝える。 「言うに人の死するや、魂は必ず蒿里山に帰する。山上に森羅大殿あり、三曹(三人の裁判官を指す)が対案する。七十五司の各神像を塑す。俗に言う地獄なり。今まで死者があると、紙を焚いて儀式を此処でする。白居易の詩にいう、「東岳の前後の魂、北邙の新旧の骨」と。また、『樊殿直廟記』に云う「人の生は蒿里に生命を受けて、その終わりは社首に帰る、ああ、像を設けて教えを為し、人に懼れを知らしめるに過ぎない。そうして、(人は)その善を図る」と。昔、呉道子(唐代の著名な画家)が成都で地獄の様相を画き、見る人はみな懼れた。市場にいる肉屋や酒売りなどは皆見に行かなかった。今、此処に遊ぶ者は未だにふざけているのを和やかに楽しんでいる、命を知らないために他ならない。」『泰山小史』より 以上に記される蒿里山の地獄思想について、フランスの東洋史家エドゥアール・シャヴァンヌは泰山への信仰の過程の中から生まれたものである、と自身の著作『泰山』の中で記している。シャヴァンヌは泰山のみに存する固有の信仰として生命を司ることを挙げる。彼は明の嘉靖11年(1532年)に世宗が嗣子を望んで泰山に祈ったことを引用し、命の生まれ出る所とされていた例をあげ、この様な生命の誕生の思想がまた、生命の帰結の思想を生んだとする(思想そのものの誕生は後漢の頃と推定)。そして死への思想がまた長寿への思想を生んだという。(7世紀もしくは8世紀よりと推定)そして、これらの泰山への信仰の過程に於いて、泰山の死の側面だけを特化して分離させた場所が、死者の魂の集う祠、蒿里山になったという(ちなみにシャヴァンヌの考察は顧炎武の『日知録』を踏まえている)。 泰山と死の思想に関して、澤田瑞穂は『中国の泰山』の中で、仏教伝来の初期に当たる三国より西晋代の経典には、漢訳の必要から、中国人に解りやすい例えとして、「泰山地獄」、「泰山王」、「泰山の鬼」という語を使っている用例が見られると指摘する。また、これが一般化し事実であるように思われるようになり、仏教の地獄説に倣って、泰山と地獄が結び付けられる様になったという。 蒿里山で行なわれていた信仰は、顧炎武や『泰山小史』のいうような道教的思想基盤の上に、十王信仰が入り、閻羅神を祀った森羅殿や十王を祀った十王殿が形成されていったものである。 澤田瑞穂は、何故、蒿里山が冥界の府となったかについて、封禅の儀を視野に入れて推測する。それは封が泰山の山頂で行なわれ、禅は蒿里山という丘で行なわれたことが、天と地という観念より、陰陽を連想させ、更に、生と死を連想させたのではないかと述べている。 補足として、 『泰山小史』にはその名の所以に関する記述があり、こう記される。 「蒿里山はまさに高里山となすべし。その高里山のもとと謂うなり。漢の武帝の太初元年に此に禅する。後世蒿里と訛りを為して。遂に鬼伯の祠となすとならん。」つまり、高里山の「高」という字が訛り蒿里山となり、その変化に伴って鬼伯(=鬼神)の祠となったのであろうと記している。
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