信仰の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:17 UTC 版)
明治8年(1875年)春、当時大阪で伝道中のアメリカの会衆派の宣教団体アメリカン・ボードの宣教医M・L・ゴルドンから贈られた『天道溯原』を読んで大いに共鳴、キリスト教こそが真に日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると感じた。その頃、新島襄(のちに覚馬の妹・八重と結婚する)と知り合い、彼の学校設立計画を知り、協力を約束した。覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6,000坪)を学校用地として新島に譲渡、次いで新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願、これが認可された。この校地は、やがて設立された同志社英学校からその後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスとなっている(なお、「同志社」は覚馬の命名といわれる)。 明治10年(1877年)、府顧問を解かれ、2年後の第1回京都府会選挙では上京区で51票を獲得して選出され、最初の府会議員の一人となり、初代議長にもなった。しかし府会の議決を経ずに、地租の追徴課税を強行する府知事の槇村と対立、最終的に槇村は一旦、追徴課税を撤回したうえで、府会に追徴課税の議案を提出して可決に至ったが、覚馬は議長、議員共に辞職、槇村も程なく京都府知事を辞して元老院議官に転じた。この後、覚馬は同志社を軸に活動し、旧主の松平容大を同志社に入学させた。一方で明治18年(1885年)、京都商工会議所会長に就任、この年に妻の時栄とともに受洗した。明治23年(1890年)、新島が他界すると、覚馬は同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力する。覚馬が臨時総長の時期に、ハリス理化学校や同志社政法学校が設置された。明治25年(1892年)、7月にカトリックに改宗し、12月に64歳で没。大正4年(1915年)、従五位を追贈された。墓は若王子山上の同志社墓地にある。
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