ヴォルテールの反教権主義
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ヴォルテールの反教権主義」の解説
ヴォルテールは3年間のイギリス亡命生活を経て『哲学書簡(フランス語版)』(1734年)を著し、そのなかでロンドン証券取引所において国教会の信者も非国教徒やカトリック教徒も、ユダヤ人やムスリムにいたるまで対等の立場で取引している光景を描いたほか、議会主権のイギリスではさまざまな党派が平穏に活動して理神論者も存在が許されているとして自国と比較してのイギリスの国制、市民的自由、信教の自由を称え、ジョン・ロックが果たした思想的役割を高く評価した。経済活動の自由は信仰の自由とともに歩むものであり、これによって初めて平和と繁栄が実現されるとヴォルテールは主張した一方、彼は自身の著作『ルイ14世の世紀(フランス語版)』(1751年)のなかで人類の「4つの幸福な時代」として、ペリクレスとプラトンに代表される古代ギリシア、キケロとユリウス・カエサルに代表される古代ローマ、メディチ家のルネサンス時代、そしてフランスのルイ14世の時代を挙げている。これらと対照的なのが「信仰の時代」であり、これを悲惨で遅れた暗黒時代とみなした。 ヴォルテールもロック同様に寛容を説き、少なくとも当初は無神論にも反対した。ヴォルテールは宗教がなぜ必要なのかについて、「法は表に現れた犯罪に目を光らせ、宗教は隠れた犯罪に目を光らせるから」と述べている。ただし、ヴォルテールがよりどころにしたのは、自身の歴史哲学であり、「かつてはおそらく必要であった」不寛容な勅令がもはや必要ではなくなっているとみなした。というのも、いまや「理性」が社会の前面に現れ、人々を「啓蒙」しているからである。あるいはまた、ヴォルテールはヨーロッパの歴史を一種の例外とみる歴史観を持ち合わせており、彼によれば「ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人、中国人、日本人」などはみずから寛容であることを示してきたのであり、不寛容さはむしろキリスト教、とりわけ教皇権至上主義者やイエズス会士、下層民などのカトリック信仰とともにあると考えた。 ヴォルテールが世界最高の文明は中国だと断言したのに対し、ヨーロッパ諸国歴訪の体験と読書による知識によって法制度と風土、経済、宗教、習俗との関係を明らかにした法社会学の祖シャルル・ド・モンテスキューは、1748年に有名な『法の精神』を著しており、そのなかで中国についても論じているが、中国にはおびただしい貧困が蔓延しており、人々は専制体制下にあると記している。専制支配に反対する点では他のフィロゾーフたちと同じであったが、モンテスキューは貴族、聖職者、高等法院、都市など特権をもつ中間の社団組織を活性化させることによって国王権力の濫用を抑止し、個人の自由の確保を主張した。同著は、立法権、行政権、司法権のいわゆる「三権分立」の理論を提唱したことで知られ、これはとくにアメリカ合衆国の成立とその国制に大きな影響を与えた。 1761年、宗教対立の続いていたトゥールーズにおいて、新教徒のジャン・カラスがカトリックに改宗した息子を殺害した疑いで死刑判決を受けるカラス事件(フランス語版)が発生した。1763年、69歳となっていたヴォルテールは『寛容論(フランス語版)』を著すなど精力的に再審運動を展開している。世人の関心を喚起する目的で3年間に書いた手紙の数は約500通におよび、そのうちの何通かは国王の側近にも達した。『寛容論』では狂信や偏見が人類に与えてきた害を告発し、イギリスにおいてカトリックが享受している寛容さに着想を得て、フランスのプロテスタントに対しても「理性の精神」に信頼して寛容を発揮しようと働きかけた。1765年、国王諮問会議は判決無効を宣告し、カラスは無罪になったとともに名誉回復がなされた。 ヴォルテールの説く寛容はロックの唱えた政教分離の理論化ではなく、反教権主義とガリカニスムの方向性を有しており、イエズス会の廃止という主張をともなっていた。当初、ヴォルテールはローマ教皇とイエズス会と司祭に敵愾心を燃やし、イングランドの平和的なクエーカー教徒(フレンド派)を称賛していたが、やがてキリスト教全般に攻撃を加えるようになった。
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