キケロと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:40 UTC 版)
「ルキウス・アウレリウス・コッタ (紀元前65年の執政官)」の記事における「キケロと」の解説
コッタは紀元前63年12月5日に開かれた、カティリナの共謀者に対する処置を決定するための元老院会議に出席している(共謀者は処刑)。その後、この陰謀が失敗に終わると、感謝祭の開催を提案し、大衆の支持を得た。キケロはカティリナの共謀者の処刑が正規の手続きを経ていない(元老院決定のみで民会での裁判が行われていない)として護民官プブリウス・クロディウス・プルケルに告訴され、ローマから追放されていたが、コッタは紀元前57年1月1日に、キケロの追放には何ら法的根拠がなく、それゆえ追放解除のための法制定も必要ないと所見を述べた。このとき、もし追放された時に自分が監察官であれば、キケロの名前を元老院議員名簿に残しておくべきだったろうとも述べたようである。その後、キケロはローマに戻ることが出来た。
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