キプロスにて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 16:32 UTC 版)
「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の記事における「キプロスにて」の解説
紀元前58年からカエサルが総督としてガリアへ赴任し、ガリア戦争でガリア人との戦争を始めた中、三頭政治の力を使ってプレブスに養子入りし、護民官に当選したプブリウス・クロディウス・プルケルが頭角を現した。クロディウスはカトを疎ましく思ったことから、カトをキプロス併合のためにプロプラエトル(前法務官)格の総督として派遣することを提案し可決された。カトにとって不本意であったものの、決議に従ってキプロスへ向かうことを受け入れた。カトのキプロス派遣によって重石の外れた格好のクロディウスは、その後キケロのローマ追放へ邁進することとなる。キケロはカトのキプロス行きを、「嫌われ者のマルクス・カトは、それが彼にとってメリットがあるかのように、キプロス行きを依頼されている」と表現している。 キプロスに赴任したカトは無事にキプロスのローマへの併合を完了させた。キプロスは豊かな地方であったが、カトはクァエストルの職にあった時と同様に不正を行わなかったことから、属州総督後に当時のローマで頻発していた汚職による告発とは無縁であった。キプロス属州化によって、ローマは新たに銀貨で7,000タラントを得ることとなった。元老院はカトに対して、キプロスでの功績により凱旋式を行うように伝えたものの、法に反するとしてその申し出を拒否した。 なお、ローマへ帰還したキケロは「パトリキ出身のクロディウスが(プレブスしか就任資格の無いはずの)護民官に選出され、その職で行った法的措置は全て無効である」と発言・決議に持ち込んだのに対し、カトは「自分のキプロスでの功績が全て取り消されるのは横暴である」とキケロを批判したため、これ以降、カトはキケロとの仲が冷却化したと伝わっている。
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