キプロスとカリアの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 03:25 UTC 版)
「イオニアの反乱」の記事における「キプロスとカリアの反乱」の解説
詳細は「Battle of Cyprus」、「Battle of Marsyas」、「Battle of Labraunda」、および「Battle of Pedasus」を参照 キプロスはイオニアの反乱に乗じてペルシアからの独立を計ったが、唯一アマトゥスのみは、反乱に加わることを拒否した。このため反乱軍はアマトゥスを包囲したが、この包囲戦の最中にペルシア艦隊が来援したため、キプロス軍はイオニアの援軍とともにキプロス北部のサラミス近郊に布陣し、ペルシア軍を迎え撃った。サラミス王オネシロス率いるキプロス反乱軍は、海戦ではフェニキア艦隊を撃破し、陸戦ではペルシアの指揮官アルテュビオスを討ち取るなど、戦いを優位に進めたが、一部の部隊がペルシア軍に寝返ったために形勢が逆転し、キプロス、イオニアの反乱軍は敗走した。この後、キプロスの諸都市は包囲され、陥落した。 カリアでは、紀元前497年にペルシアから討伐部隊が派遣され、マイアンドロス川に合流するマルシュアス川で反乱軍との戦闘が行われた。長時間にわたる激戦の末、反乱軍はラブラウンダに敗走し、ゼウス・ストラテイオス神域に逃げ込んだ。しかし、ここでイオニアからの援軍を得た反乱軍は勢いを盛り返し、ペダソスの街道に進軍。夜間、ペルシア軍を急襲してこれを殲滅した。
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