二重包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:48 UTC 版)
「アッコ包囲戦 (1189年-1191年)」の記事における「二重包囲戦」の解説
秋の間にヨーロッパからさらに多くの十字軍団がアッコンに集結したことで、ギーはアッコンを海上からだけではなく、陸上からも包囲することができた。そんな中、ヨーロッパからフリードリヒ1世が来訪し、十字軍団を沸かせた。しかし皇帝の来訪は十字軍の戦意を高めただけではなく、サラディンに危機感を抱かせることにもなった。サラディンは諸国から増援を集め、アッコンを包囲する十字軍とそれの野営地を共に取り囲もうとした。 10月3日、ムスリムのガレー船50隻がアッコンに進撃し、市を海上から包囲してた十字軍の艦隊を打ち破りアッコンに入城。アッコンを守備するムスリム部隊に対して、10,000人の増援部隊に加えて食糧や武器などを補充した。12月7日、サラディン配下のエジプト艦隊がアッコンに現れ、アッコン市の港と、港につながる街道を抑えた。1190年3月の天気の良い日、コンラートは自身の艦隊を率いてティルスに向かい、補給品を携えて時を置かずにアッコンの陣に戻った。この補給品のおかげで、十字軍は沿岸のエジプト艦隊に対して海岸沿いから良く対抗することができた。コンラートの補給品の中には攻城兵器の材料となる木材などがあり、これをもとに攻城兵器を製造した。しかしながら、これらの兵器は5月にアッコン市を攻めた時に破壊された。 5月20日、前々から自身の兵力を増強し続けてきたサラディンは十字軍の野営地を襲撃した。この攻撃は8日続いたが十字軍に撃退された。6月25日、指揮官の命令に背いた十字軍兵士が、突如サラディン軍の右翼部隊に攻撃を仕掛けた。この無計画な突撃は失敗に終わった。そうこうしているうちに、十字軍に新たな援軍が現れた。アンリ2世やティボー5世、エティエンヌ1世(英語版)やラウール1世(英語版)、ブザンソン大司教(英語版)やブロワ司教(英語版)、そしてトゥール司教(英語版)らが率いるフランク人部隊がまず最初に到着し、また9月の頭には、6月10日にキリキアのサレフ川にて進軍中に溺死したローマ皇帝に変わって、彼が率いていたドイツ人部隊の残存兵を率いてフリードリヒ6世(英語版)が続いて着陣。その後間をおかずにカンタベリー大主教率いるイングランド人部隊も到着した。そして10月にはバル公が着陣し、十字軍はその地域の大都市であるハイファを奪取した。このおかげで十字軍の野営地に豊富な食糧が供給されるようになった。 しかし、街・野営地での暮らしは、共にサラディンに徹底的に包囲されていたことからあっという間に悪化した。食糧の供給は滞り始め、水は兵士・動物の死骸で汚染され、衛生環境が悪化したことで伝染病がすぐに蔓延し始めた。そして十字軍を率いていた貴族の1人であるルートヴィヒ3世(英語版)はマラリアに感染し、新たなフランク部隊の到着と入れ替わりで療養のためにフランスに帰国を開始。しかしフランスにたどり着く前の10月16日、キプロスにて死去した。6月後半から10月のある時点で、ギーの妻でありエルサレム王国女王シビーユが2人の子供を産んですぐに死去。エルサレム王の王位継承権はシビーユにあったためにギーは彼女の死去と共に正統な王位継承権を失い、シビーユの王位は彼女の妹であるイザベルに継がれることになっていた。しかしギーはイザベルにエルサレム王位を引き渡すことを拒んだ。 エルサレム王国の貴族たちは、これを機にギーから離反し、コンラートとイザベルを結婚させようとした。しかし、イザベラは既婚者であり(夫はオンフロワ4世・ド・トロン)、コンラートも1187年にティルスに到着する数週間前にビザンツ皇女と結婚しており、別離状態が続く中で離婚が成立していたのか否か微妙なところであった。しかもイザベルの姉シビーユの最初の夫はコンラートの兄グリエルモであった。それゆえ、コンラートとイザベルの結婚は教会法上で近親婚と見なされ認められないはずだった[要出典]。この頃エルサレム総大司教ヘラクリウスが病に倒れ、彼が代理に任じたボールドウィン・オブ・エクセターも11月19日に急死した。そのためピサ大司教ウバルド・ランフランキとボーヴェ司教フィリップが教皇特使として派遣されてきて、11月24日にイザベルとオンフロワ4世の離婚を承認した。コンラートはイザベルを連れてティルスに引き上げたが、ギーはなお王位を主張し続けた。結局このエルサレム王位継承問題は、1192年に選挙が実施されるまで長引くことになる。 サラディンの軍勢をこの上ないほどに増えて周辺地域を抑えてしまったことから、ヨーロッパからやってくる十字軍は陸路でアッコンに向かうことができなくなってしまった。また冬が近づいてきていたことから海路での補給物資や援軍の供給ができなくなり始めていた。1190年から1191年の冬にはアッコンに駐在するムスリム守備兵が20,000にまで増加していた。この頃、十字軍の野営地では多くの指揮官が伝染病で命を落とし始めていた。1191年2月20日、ブロワ伯ティボー5世とシュヴァーベン大公ルートヴィヒ6世が野営地で死去し、シャンパーニュ伯アンリ2世は数週間の間闘病生活を送った。地元の司教も病に倒れた。 12月31日、十字軍はアッコンの城壁を攻撃したが失敗し、1月6日、城壁の一部が崩れたことを受けて再び十字軍は街を攻撃しようと試みた。そして2月13日、サラディンは街を包囲する十字軍の戦列の一部を打ち破りアッコンに新手の守備隊を送り込むことに成功した。コンラートは海側からアッコンを攻撃しようと試みたが、向かい風や浅瀬の岩場などにより十分に港に近づけず、思うように損害を与えることは出来なかった。しかしながら、3月、天気の良い日に野営地付近の海辺で十字軍は補給品を荷揚げすることができ、また、ヨーロッパからレオポルト5世がアッコンに着陣したことも受け、十字軍遠征は継続されることとなった。レオポルト5世は今後の十字軍の指揮を取ることになった。またこの頃、サラディンには驚くべき知らせが届いていた。イングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世がエルサレム奪還を目指して進軍しており、サラディンはもはや十字軍を完全に殲滅する機会を逃してしまっていた。
※この「二重包囲戦」の解説は、「アッコ包囲戦 (1189年-1191年)」の解説の一部です。
「二重包囲戦」を含む「アッコ包囲戦 (1189年-1191年)」の記事については、「アッコ包囲戦 (1189年-1191年)」の概要を参照ください。
- 二重包囲戦のページへのリンク