二重制の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 07:00 UTC 版)
「ハンガリー革命 (1848年)」も参照 19世紀が中盤にさしかかるとハプスブルク帝国のヨーロッパでの影響力は相対的に低下し始めた。 1848年の2月革命でオーストリアが混乱すると、3月にコシュート・ラヨシュはペシュトで武装蜂起し(ペシュト蜂起)、自治政府を設立した。しかし国内の安定を取り戻したオーストリア軍に鎮圧されると、コシュートはハンガリーの独立を宣言して再びブダペストを奪回した。しかしオーストリア軍とロシア軍の前に敗れ、独立は失敗した(ハンガリー革命)。 しかし1866年にプロイセン王国との普墺戦争に敗北してドイツでの覇権を喪失するなど弱体化した帝国内部では、ハンガリー人や他の被支配民族の独立運動はなおも活発化した。 これを危惧したフランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とともに帝国の支配の強化を図り、1867年にハンガリー王国の自治権拡大を認めた。そして自らがオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。これは帝国を維持したいオーストリア政府と、自治権の一層の強化を求めるハンガリー貴族の両者の利害が一致してできた融和と妥協の産物で、「アウスグライヒ」(和協)と呼ばれる。ハンガリー王国はオーストリア=ハンガリー二重帝国一翼を担う存在に位置づけられた。王国内には独自の内閣や議会も置かれ、ハプスブルク家に対するハンガリーの影響力は強まったのである。 19世紀末のハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。
※この「二重制の時代」の解説は、「ハンガリー王国」の解説の一部です。
「二重制の時代」を含む「ハンガリー王国」の記事については、「ハンガリー王国」の概要を参照ください。
- 二重制の時代のページへのリンク