イングランド統治時代
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「キプロス王国」の記事における「イングランド統治時代」の解説
イングランドのリチャード1世は十字軍としてエルサレム王国救援に向かう途中、彼のイングランド艦隊の一部が嵐に遭い、地中海の東ローマ帝国領キプロス島に漂着した。この頃、ビザンツ帝国の皇族のイサキオス・コムネノス (en) がキプロスに拠って反乱をおこし、帝国から自立していたのだが、彼はイングランド艦隊の漂着船に乗っていた乗組員らを捕縛、監禁した。その後、リチャード王の妹ジョーンと王の花嫁ベレンガリアが乗った船が嵐で漂流し、同じくキプロス島にたどり着いた。しかしイサキオスは彼女らの下船も許さなかった。この後すぐ、リチャード王は艦隊を引き連れキプロスに到着した。リチャード王は、最初はキプロスを占領する意思は無かったのだが、イサキオスのこれまでの悪行を聞きつけると、イサキオスを討伐すること決意した。この時、イサキオスには、政敵であるビザンツ帝国皇帝アンゲロス家から自らを守ってもらうためにサラディンと密約を結んでいるという噂が立っていたこともこの決意に影響していると言われている。 そんなキプロス島は非常に戦略的に重要な拠点であり、聖地遠征の前線基地にはもってこいの島であった。それゆえ、前述のイサキオスの悪行のこともあったリチャード王は島を占領することを決めた。そして、イングランド軍をリマソールの浜辺に上陸させてキプロス軍と対峙させ、イングランド弓兵・重装騎士にそれを援護させた。コムネノスとその家臣らは夜までに丘の上に撤退したが、リチャード王はそれを見つけ出し、彼らの野営地を襲撃した。またしてもコムネノスは数人の供と逃げおおせた。翌日、キプロスの貴族らはリチャード王に降伏し、忠誠を誓った。それからしばらくして、コムネノスはリチャード王に対して20,000マルクの賠償金と500人の重装騎士を提供し、リチャード王の妹と花嫁を引き渡し、また彼の善行の担保として自身の居城を差し出した。 しかしコムネノスは、リチャード王の気が変わって自身が殺されてしまう恐れを危惧し、上記のものをリチャード王に提供したのち、再び逃走し、カンタラの砦に逃げ込んだ。5月12日、リチャード王は花嫁ベレンガリアとの結婚式をキプロスにて取り行った。それより数週間後、コムネノスはボートでビザンツ帝国本土に逃げようと試みたものの、キプロス島東端の岬に流されてしまった。彼はリチャード王に捕まり、シリアのマーカポッスの城に幽閉され、そのまま亡くなった。そうこうしているうちに、リチャード王は再び聖地への遠征を再開した。彼は、ギー・ド・リュジニャン率いる十字軍の援軍と合流して、そのままアッコンへと旅立った。その際、リチャード王はキプロスに Richard of Canville ・ Robert of Thornham の2人の家臣を守備隊長として残していった。 リチャード守備隊長は、彼に反発したキプロス住民の財産を押収した。また、彼はキプロスの法律と伝統を維持する代わりに、その住民らに50%もの財産税を負担させた。そして住民らに顎髭を剃るよう命じた。(←彼らの慣習?) 守備隊らの圧政への不満を高めたキプロス住民は、イサキオスの親族らを擁して反乱を起こしたが、ロバート守備隊長によって鎮圧され、反乱の首謀者は処刑された。その際、リチャード守備隊長は、ロバート守備隊長が行った反乱の首謀者に対する勝手な処刑を非難した。キプロスの王位を主張する者をリチャード王の承認なしに処刑することは、イングランド王家に対する侮辱であるとみなしたからだ。イングランド統治下におけるキプロス島の歴史は Chronicle of Meaux Abbey に詳細に記されている。この Meaux Abbey の修道院長とロバート守備隊長が縁戚であったこともあり、内容はロバート守備隊長に依るものが多い。
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