イングランド軍とハロルドの準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:01 UTC 版)
「ヘイスティングズの戦い」の記事における「イングランド軍とハロルドの準備」の解説
詳細は「スタンフォード・ブリッジの戦い」を参照 イングランド軍は地方の系列に沿って組織化されており、フュルド(英語版)(fyrd)あるいは地元の召集隊が地元の有力者――伯、司教、国王役人(sheriff)といった者の下で任務に就いた。フュルドは自ら土地を所有する者で構成され、王からの軍勢の求めを満たすため各自の共同体によって武装を施された。ハイド(hide)、あるいは名目上一つの家族を支えるに足りるとされた土地単位の5つごとに、1名が任務に就くこととされていた。ハンドレッド(英語版)(hundred)がフュルドを組織化する主な機構であったようである。全体としてイングランドは、召集の際にはおよそ1万4000名をフュルドへ提供できた。緊急事態を除いては、フュルドは通常2カ月に渡って任務に就いた。国を挙げたフュルド全体の召集は稀であり、1046年から1065年の間には1051年、1052年、1065年の3度においてのみ行われた。王はまたハスカール(housecarl)として知られる武装者の一団を個人で抱えており、それが王の軍勢の中核を形成した。一部の伯もまたハスカールによる独自の戦力を備えていた。地元の土地所有名士であるセイン(thegn)は王のハスカールとともに戦うか、あるいは伯や他の有力者の軍勢に加わった。フュルドとハスカールはいずれも徒歩で戦い、両者間の主な相違はハスカールの防具がより優れている点であった。イングランド軍はまた、さしたる数の弓兵を備えていなかったようである。 ハロルドは1066年の半ばを南部の海岸で、大軍と船団を備えギヨームの侵攻を待ち受けて過ごしていた。配下軍の大部分は農作物の収穫を行う必要がある民兵であったので、ハロルドは9月8日に民兵と船団を解散させた。ノルウェー軍の侵攻を知った彼は道中で戦力を集めながら北方へ急ぎ、ノルウェー軍へ奇襲をかけて、9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで彼らを敗北させた。ハーラル3世とトスティは戦死し、ノルウェー軍は甚大な損害を被り、当初の300隻の船舶が生き残りを運び去るに必要とされたのはわずか24隻というほどであった。ハロルドの軍は打撃を被り弱体化した状態で、南からははるかに遠ざかっており、イングランド軍の勝利は大きな代償を伴った。
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