イングランド王家による領有
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 07:17 UTC 版)
「アキテーヌ公」の記事における「イングランド王家による領有」の解説
ギヨーム10世は男子の継承者なく1137年に死去し、2人の娘が残された。姉のアリエノールは同年7月25日、フランス王太子ルイ(後のフランス王ルイ7世)と結婚し、夫妻はアキテーヌ公兼ポワトゥー伯となった(妹のペトロニーユはヴェルマンドワ伯ラウル1世と結婚したが離婚)。しかし、この結婚は1152年3月21日に2人の血縁関係を理由として破棄された。そしてアリエノールは同年5月18日、アンジュー伯アンリと結婚し、アキテーヌ公位はフランス王ルイ7世からアンリに移った。1154年、アンリはイングランド王として即位(ヘンリー2世)し、以後、アキテーヌ公領はイングランド王もしくはその王子たちが領有したが、イングランド王側はアキテーヌ公領などの大陸の所領についてフランス王に臣従礼を行うことが課せられた。 しかし、この後、リュジニャン家をはじめとする在地領主によるイングランド王に対する反乱がしばしば起こり、中にはフランス王フィリップ2世に対し臣従礼を行う領主もいた。その後、カスティーリャ王アルフォンソ8世によるガスコーニュ侵攻や、フランス王によるポワトゥーの都市ラ・ロシェルの奪取(1224年)などが起こり、ヘンリー3世の時代になると、大陸領土の防衛と統治が重要視されるようになり、ヘンリー3世自身もたびたび公領を訪れ、現地領主からの臣従礼を受け、政治的安定性の回復に努めた。 1259年12月4日、フランス王ルイ9世とイングランド王ヘンリー3世の間でパリ条約が合意され、ヘンリー3世はノルマンディー、アンジューのほかメーヌ、トゥーレーヌとポワトゥーに対する権利を放棄する代わりに、アキテーヌ公として公領の一部であるガスコーニュをフランス王ルイ9世から受領することになった。1294年以降、両国は戦争状態に陥ったが、イングランド側はランカスター伯エドマンドを使者として送り、フィリップ3世と和解の道を模索した。しかし結果として、フィリップ3世が和解の条件を拒否し、1294年5月19日にイングランド王家の大陸側の所領の没収を宣言した。同年6月20日からガスコーニュにおいて戦闘が始まったが(ガスコーニュ戦争)、1297年には戦局は膠着状態に陥り、10月9日、休戦協約が成立した。 翌1298年6月30日には教皇ボニファティウス8世による調停がなされたが、ガスコーニュのイングランドへの返還が合意されたのは、1303年5月20日のパリ条約においてであった。1305年にガスコーニュ出身のボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴがフランス王フィリップ4世の支持のもと教皇(クレメンス5世)に選出されたこと、および1308年1月にイングランド王エドワード2世が、フィリップ4世の娘イザベルと結婚し、フィリップ4世に臣従礼を行ったことで、両家の対立は解消されていった。しかし、フランス王シャルル4世の時代になると、エドワード2世は臣従礼をたびたび延期し、また、ガスコーニュの領主がアキテーヌ公たるイングランド王からの処罰を逃れ、身柄の保護を受けるためフランス王へ上訴するケースが増えたことから、両国の関係は悪化し始めた。さらに、当時イングランド王が領有していたアジュネのサン・サルドスにおけるバスティッド建設をめぐる争いの中、1324年6月、フランス王シャルル4世はアキテーヌ公領の没収を宣言した。翌1325年5月から6月にかけ、両家の間で和平が成立し、イングランド王側がシャルル4世に臣従の礼を行うことを条件に公領を返還されることが決まり、同年9月、王太子エドワード(後のエドワード3世)により臣従礼がなされ、11月10日、公領の一部がイングランド側に返還された。しかしフランス軍が占領したアジュネに関しては返還されなかった。
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