イングランド王家へ仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 06:22 UTC 版)
「ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)」の記事における「イングランド王家へ仕官」の解説
縁故を得たアリエノールの尽力により、ウィリアムは1169年にはイングランド王ヘンリー2世とアリエノールの嫡男若ヘンリー王に騎士道を教える立場となり、後にウィリアムは若ヘンリー王を騎士に叙任する儀式を執行する役目も与えられた。しかし1173年、若ヘンリー王は父に対する反乱を起こす。この内乱時にウィリアムがどのような活躍をしたかについては、『ギョーム・ル・マレシャル伝』には詳しい記述はないが、和解に協力したと見られる。 若ヘンリー王とウィリアムの関係は良好なものであったが、1182年になると若王の妃マルグリットとウィリアムの間に不倫関係があるとの非難を受け、若王の下を去ることになった。ウィリアムはヘンリー2世の宮廷に行き、告発人と決闘裁判(ゲルマン法に基づく裁判方法で、勝った方の言い分が正当と評価される)を申し出るが、これも拒否されてしまう。しかし数ヵ月後、熱病で死の淵にあった若王は、十字軍への参加という自らは果たせなかった誓いを達成するようウィリアムに依頼した。これを受け、ウィリアムは1183年から1186年まで十字軍に参加し、聖地において死ぬ時はテンプル騎士団として埋葬されることを誓った。この誓い通り、ウィリアムは死の直前にテンプル騎士団に入団している。 聖地から帰還したウィリアムはヘンリー2世に仕えた。ヘンリー2世の治世下では、若ヘンリー王の弟リチャード(後のリチャード1世)の反乱が起きていた。1189年、ル・マンからシノン城での戦闘で、ウィリアムはリチャード王子を落馬させ、たやすく命を取れる状況になった。しかし、ウィリアムは(一説にはこの時、リチャードが鎧など武具を身に着けていなかったため)リチャードを殺すことはせず、代わりに馬を殺すにとどめた。ヘンリー2世の死後、ウィリアムはかつて敵対していたリチャード1世に仕えることになる。リチャードは、ヘンリー2世によって長年ソールズベリーに幽閉されていた母アリエノールのもとへ、身の解放を告げる使者としてウィリアムを派遣した。リチャード1世は自分の命を取ろうとしたという理由で、忠義の騎士であるウィリアムを排除するほど狭量な君主ではなかったのである。
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