イングランド王即位
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「ウィリアム3世 (イングランド王)」の記事における「イングランド王即位」の解説
1686年、ルイ14世が再び欧州侵略の野望を強めると、ウィレム3世はオーストリアやスペイン、スウェーデンなどとアウクスブルク同盟を結成してフランスに対する対抗姿勢を強め、1688年にルイ14世がドイツのプファルツ侵略を開始すると大同盟戦争が勃発した。同年、イングランド議会の要請を受け、ウィレム3世はフランス軍がオランダへの即時攻撃がないことを確かめると、同盟国から派兵された軍をヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒに率いさせてオランダの守備を任せ、残りのオランダ軍を率いてイングランドに上陸、叔父かつ義父のジェームズ2世をフランスに追放した。イングランドでは1人の死者も出すことなく体制変革に成功したため、名誉革命と呼ばれている。 翌1689年2月にウィレム3世はウィリアム3世として国王に即位し、女王となった妻メアリー2世と共にイングランドの共同統治者となった。当初、イングランド議会の意向はメアリーの単独統治であり、ウィレム3世は女王の夫(王配)としてのみ遇されるはずであった。しかしウィレム3世はそれに反発し、オランダ軍の撤収もほのめかしながら、チャールズ1世の女系の孫である自らも王位に就くことを望み、メアリーも同調したため、イングランドはウィリアム3世とメアリー2世を同格の君主として戴くことになった。ここにおいて、それまで3度の英蘭戦争を戦ってきた両国は同君連合に近い形となった(厳密には、オランダ総督は元首ではあっても君主とはいえない)。 ウィリアム3世の治世中、イングランド軍の司令官にオランダ人が任命されたり、オランダ人やフランス人が恩賞を与えられたりイングランド貴族に叙任されることもあった(ポートランド伯爵ウィリアム・ベンティンク、ションバーグ公爵フレデリック・ションバーグ、アスローン伯爵ゴダード・ドゥ・ギンケル、ゴールウェイ伯爵ヘンリー・デ・マシュー、アルベマール伯爵アーノルド・ヴァン・ケッペル、ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルクなど)。また、即位時に議会が提出した権利章典によって君主の権力が議会に制限されたとはいえ、議会召集と解散、軍事権は未だ国王が所持していて、ウィリアム3世は議会と提携しながら大同盟戦争を遂行することになる。オランダでは腹心のアントン・ヘインシウスがホラント州法律顧問に選ばれ、不在のウィリアム3世に代わってオランダを取り仕切るようになる。 スコットランドにも革命の影響が及び、1689年3月にスコットランド貴族が議会を招集、4月にウィリアム3世とメアリー2世が国王と宣言された。不満分子でジェームズ2世支持者(ジャコバイト)のダンディー子爵ジョン・グラハムがハイランド地方で起こした反乱も7月に鎮圧されたが、1692年にウィリアム3世がハイランド地方の氏族に忠誠を誓うよう命じたところ、スコットランド国務大臣のステア伯ジョン・ダルリンプルがウィリアム3世の命令を取り付け期限に遅れたマクドナルド氏族を虐殺した(グレンコーの虐殺)。1695年に経済再建を図ってスコットランドがパナマ地峡を中心にして貿易を行おうとしたダリエン計画にも、イギリス東インド会社の反発もあって援助を与えず、1700年に計画が失敗したため、ウィリアム3世の評判は地に墜ち、スコットランド人のイングランドへの反感が強まり、ジャコバイトの反乱の温床となっていった。
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イングランド王即位
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「ジェームズ1世 (イングランド王)」の記事における「イングランド王即位」の解説
1603年3月に入るとエリザベス1世が重体となり、セシルは女王崩御に備え、3月19日にジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて、王位継承準備を整えた(エリザベス1世がジェームズ6世への王位継承を認めていたかどうかは不明)。5日後の3月24日にエリザベス1世は崩御し、ジェームズ6世は4月にエディンバラを出発、ロンドンで熱狂的な歓迎を受け7月25日に戴冠、同君連合でイングランド王ジェームズ1世となった。平穏な王位継承を迎えるための政治工作に尽力したセシルには翌1604年にソールズベリー伯爵を叙爵、1608年に大蔵卿(英語版)に任命して報い、ソールズベリー伯の従兄のフランシス・ベーコンもナイト叙爵と特命の学識顧問官任命で助言者に迎え入れた。 これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを王冠連合と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。 即位直後に2つの陰謀事件が発覚(メイン陰謀事件・バイ陰謀事件)、先代の寵臣の1人だったウォルター・ローリーをメイン陰謀事件に連座したため投獄しているが、ソールズベリー伯とノーサンプトン伯爵ヘンリー・ハワードがジェームズ1世にローリーへの讒言を吹き込んだことも原因に挙げられる。ローリーは死刑判決を受けるも未執行のままロンドン塔で過ごし、1616年に南米ギアナに黄金があるという話を当てにしたジェームズ1世によりロンドン塔から出され南米へ出発したが、黄金を見つけられなかった上現地でスペイン部隊と交戦、スペインに損害を与えれば死刑にするという出発前にジェームズ1世と交わした約束もあり、スペインからの抗議を受けたジェームズ1世により1618年の帰国後に処刑された。
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