グレンコーの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/26 19:23 UTC 版)
グレンコーの虐殺(ぐれんこーのぎゃくさつ、The Massacre of Glencoe)は1692年、イングランド政府内強硬派およびスコットランド内の親英勢力の手によって、グレンコー村(スコットランド)で起きた虐殺事件である。規模は歴史上の虐殺事件に比して小さいものであったが、罪なき村民が背信行為によって殺された手法と経緯に、国内外から批判が集まった。これによって名誉革命体制は打撃を受け、イングランド・スコットランド関係が険悪になる原因を作った。グレンコーはスコットランド・ハイランド南西部の谷である。
- ^ ハイランドはノース人・ピクト人などから成り、ケルト系言語のスコットランド・ゲール語圏であった。それより南の低地地方(ローランド)は、英語と同じゲルマン系言語で、民族もアングロサクソン系が入り込んでいた。
- ^ ウィリアムはイングランド王位についた後も依然ネーデルラント総督の地位にあり、オランダを守る必要もあった。名誉革命によるウィリアムのイングランド王位継承は、ネーデルラント=イングランド同盟対フランスという構図を鮮明にした。
- ^ イングランド法においてはマグナ・カルタやコモン・ローなどから、臣下が王に反対する権利を見出すことが比較的容易で、名誉革命を正当づけるために古来の慣習法が引きあいに使われた。
- ^ 革命前にはカトリック陰謀事件のような騒動も起きていた。
- ^ もともとの署名の地であったフォート・ウィリアムにグレンコーのマクドナルドが到着したとき、州知事のヒルは期限前に到着したことを証明する書簡を担当部署に送った。ヒルはマクドナルドを安堵させるよう取り計らったが、結局これは顧みられなかった。変更先のインヴァレリーは南に80kmほど離れたところであった。
- ^ 英語版より投稿者和訳。
- ^ すぐにスコットランド大臣に復帰した。
- ^ スコットランドが植民地との交易を行う特許会社。設立にあたっては、イギリス東インド会社などイングランド経済界が、既得権が脅かされるとして反対した。同社の妨害などによって十分な活動ができず、ダリエン計画でスコットランド経済は致命傷を負った。
- ^ 1639年にマクドナルド氏族はキャンベル氏族を攻撃していて、今回はその意趣返しであるという説明だった。
- ^ 英語版記事より投稿者和訳。
- ^ キャンベル氏族のおもな領地。ハイランド西部で、北アイルランドの対岸に位置する。
- 1 グレンコーの虐殺とは
- 2 グレンコーの虐殺の概要
- 3 虐殺事件
- 4 事件の影響
- 5 参考文献
- グレンコーの虐殺のページへのリンク