南米へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 22:21 UTC 版)
「フランシスコ・デ・ミランダ」の記事における「南米へ」の解説
ミランダの人生はラテンアメリカに於けるスペイン帝国からの独立への苦難に満ちていた。ミランダはミシシッピ川からホーン岬に至る広大な領域に広がるスペインやポルトガルの植民地全てを合わせ、一個の帝国として独立させる構想を思い描いていた。帝国はインカ帝国にちなんでインカと称する世襲制の皇帝に率いられ、二院制の議会を持つ。また国号はクリストファー・コロンブスから取りコロンビアとする計画であった。 1805年11月、ミランダはニューヨークへと旅行し、ウィリアム・ステファンズ・スミスと再開、彼の紹介で商人のサムエル・オグデンと出会った。そして、ワシントンD.C.に移動し、時の大統領トマス・ジェファーソンや国務長官ジェームズ・マディソンとも個人的に話をした。その後ミランダはベネズエラ独立のためのフィリバスター組織を結成した。この中には後にメキシコ合衆国からテキサス共和国が独立した際に暫定大統領となったデービッド・ガーベナー・バーネットも居た。そして彼はサムエル・オグデンから船を借り、現在のハイチ共和国ジャクメルに至った。そこで更に二艘を乗組員付きで借りた。そして、それらの船の中で1806年3月12日、ベネズエラの国旗を彼は作成した。4月28日にスペイン艦隊がベネズエラ沖に至り、ジャクメルで借りた船が沈没した。この時、6人が捕えられ、10人が死亡した。その後、当時英国領であったバルバドス島、トリニダード島にミランダは行き、体制を立て直した。当時の英国はミランダを裏で援助し、ベネズエラ総監領の侵略をミランダに唆した。何故ならスペイン帝国はナポレオン・ボナパルト率いるフランス第一帝政と同盟関係にあったからである。8月3日にベネズエラに戻り、要塞を陥落させ、ベネズエラの地に彼の作った国旗を掲揚した。翌朝迄にはコロとその港を占拠したものの、住民からの援助は無かった。更にスペイン王国軍が戻って来る事が予想されたため、13日にはコロを放棄し、西インド諸島へと引き返した。1808年には英国による軍備増強が完了し、アーサー・ウェルズリー率いる軍隊となったが、ナポレオンに対するスペイン独立戦争が勃発すると、軍隊はそちらに動員された。
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