南米のスイス(1903年-1955年)
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「ウルグアイの歴史」の記事における「南米のスイス(1903年-1955年)」の解説
1903年にコロラド党からホセ・バッジェ・イ・オルドーニェスが大統領に就任すると、1904年1月にバッジェの政策に反発したブランコ党のアパリシオ・サラビア(スペイン語版)が反乱を起こし、バッジェ政権は崩壊の危機に立たされたが、9月にバッジェは内戦をコロラド党の勝利で終結させた。この後にバッジェはスイスをモデルとした改革を進め、内戦を繰り返す小国だったウルグアイはバッジェの改革により、ラテンアメリカでも稀な民主的な国家に変革した。第一次バッジェ政権は年金法(1904年)を制定するに留まったが、渡欧中の1907年には離婚法が制定され、1911年に成立した第二次バッジェ政権はラテンアメリカ初の8時間労働法(1915年)の成立や、電気、郵便事業などの国有化、教育の整備、社会保障の拡充を進め、労働者の保護に努めた。さらにバッジェは19世紀の内戦の原因を強力な大統領権にあると考察し、1918年憲法を制定して国家とカトリック教会の法的な分離と、大統領権を弱めた複数行政制の導入を図った。バッジェの治下では複数行政制は実現しなかったが、1951年にバッジェの願いは叶い、ウルグアイは大統領制を廃止した。バッジェは寡頭支配層の基盤を繰り崩すような農地改革を行わなかったといった問題点を残しつつも、福祉国家ウルグアイを建設し、ウルグアイは「南米のスイス」とも呼ばれるようになった。バッジェは1929年の世界恐慌の四日前に死去したが、バッジェの改革はそれまでの不安定だったウルグアイに二大政党制を安定させ、民主主義を定着させた功績を持つものである。バッジェの登場以降、バッジェの路線に沿ってウルグアイは、独裁政権や軍部のクーデターに脅かされる他のラテンアメリカ諸国とは異なる、独自の運命を辿ることになった。事実、隣国のアルゼンチンやブラジルが1930年代から不安定な歴史を辿るのに対し、ウルグアイの民主政治は1973年のクーデターまで継続することになったのである。 憲法制定百周年目の1930年にモンテビデオで開催された第一回FIFAワールドカップでウルグアイ代表はアルゼンチン代表を破り、世界初のワールドカップ優勝国となった。一方、1929年の世界恐慌により、経済を農牧産品の輸出に依存していたウルグアイも大打撃を受けた。 1931年にコロラド党からガブリエル・テラが大統領に就任した。1932年には女性参政権が認められたが、テラは複数行政制度を崩壊させるために1933年3月に自己クーデターを起こし、独裁を開始した。親ファシズム的な傾向を有していたテラは1934年に新憲法を制定して言論や労働運動の弾圧を行い、スペイン内戦に際してはスペインのフランシスコ・フランコ政権との友好関係を保ったが、ウルグアイ国民がこのような政策を望んでいなかったために、1938年の選挙で敗れ、辞任した。 1938年にコロラド党民主派からアルフレド・バルドミール(スペイン語版)が大統領に就任すると、バルドミールは親ファシズム外交を改め、国内の民主化に努めた。第二次世界大戦が勃発するとウルグアイは親連合国姿勢を採り、ラ・プラタ沖海戦でナチス・ドイツのポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーが中立国だったウルグアイのモンテビデオに入港した際も、親連合国的な中立外交を貫いた。グラーフ・シュペーは英独宇三国の外交戦の末にモンテビデオ沖で自沈した。 第二次世界大戦後、1947年にコロラドからバッジェの甥のルイス・バッジェ・ベレス(スペイン語版)が大統領に就任した。ルイス・バッジェの下では急速な工業化が進み、福祉国家の実現が図られた。ルイス・バッジェは故バッジェの意志を継いで1951年に憲法を改正し、大統領制を廃止して9人の委員からなる国民執政委員会(コレヒアード)により行政を行うウルグアイ独自の新制度を導入した。 文化面では、文学において19世紀末から20世紀初頭にかけてモデルニスモ文学がウルグアイでも隆盛を迎えた。詩の分野ではフリオ・エレーラ・イ・レイシグが活躍し、散文においてもエドゥアルド・アセベド・ディアス、ハビエル・デ・ビアナ、カルロス・レイレス、オラシオ・キロガらが活動した。また、モデルニスモ文学で重要な役割を果たしたホセ・エンリケ・ロドーは『アリエル』(1900)でアリエル主義を唱え、アメリカ合衆国の物質文明と対比して、ラテンアメリカの精神文明を称揚した。後期モデルニスモにおいてはフアナ・デ・イバルボウロウとデルミラ・アグスティーニの二人の女流詩人が活動した。モデルニスモの後は『井戸』(1939)のフアン・カルロス・オネッティや、フェリスベルト・エルナンデスなどが活動した。音楽においては、アルゼンチン勢のヨーロッパでの成功も助けとなり、ウルグアイのタンゴも国際的に成功を収めた。この時期にはヘラルド・マトス・ロドリゲスの「ラ・クンパルシータ」(1917)のような曲が生まれた。 1950年にブラジルで開催された第四回FIFAワールドカップでウルグアイ代表はブラジル代表を破り、二度目の優勝を遂げた。
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