南米のスイスとは? わかりやすく解説

南米のスイス(1903年-1955年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 16:41 UTC 版)

ウルグアイの歴史」の記事における「南米のスイス(1903年-1955年)」の解説

1903年コロラド党からホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領就任すると、1904年1月にバッジェの政策反発したブランコ党のアパリシオ・サラビア(スペイン語版)が反乱起こし、バッジェ政権崩壊危機に立たされたが、9月にバッジェは内戦コロラド党勝利終結させた。この後にバッジェはスイスモデルとした改革進め内戦繰り返す小国だったウルグアイはバッジェの改革により、ラテンアメリカでも稀な民主的な国家変革した第一次バッジェ政権年金法(1904年)を制定するに留まったが、渡欧中の1907年には離婚法制定され1911年成立した第二次バッジェ政権ラテンアメリカ初の8時間労働法(1915年)の成立や、電気郵便事業などの国有化教育整備社会保障の拡充進め労働者保護努めた。さらにバッジェは19世紀内戦原因強力な大統領にあると考察し1918年憲法制定し国家カトリック教会法的な分離と、大統領弱めた複数行政制の導入図った。バッジェの治下では複数行政制は実現しなかったが、1951年にバッジェの願い叶いウルグアイ大統領制廃止した。バッジェは寡頭支配層の基盤繰り崩すような農地改革を行わなかったといった問題点残しつつも、福祉国家ウルグアイ建設しウルグアイは「南米のスイス」とも呼ばれるようになった。バッジェは1929年世界恐慌四日前に死去したが、バッジェの改革それまで不安定だったウルグアイ二大政党制安定させ、民主主義定着させた功績を持つものである。バッジェの登場以降、バッジェの路線沿ってウルグアイは、独裁政権軍部クーデター脅かされる他のラテンアメリカ諸国とは異なる、独自の運命を辿ることになった事実隣国アルゼンチンブラジル1930年代から不安定な歴史を辿るのに対しウルグアイ民主政治1973年クーデターまで継続することになったのである憲法制定百周年目の1930年モンテビデオ開催され第一回FIFAワールドカップウルグアイ代表アルゼンチン代表を破り世界初ワールドカップ優勝国となった一方1929年世界恐慌により、経済農牧産品輸出依存していたウルグアイ大打撃受けた1931年コロラド党からガブリエル・テラ大統領就任した1932年には女性参政権認められたが、テラ複数行政制度崩壊させるために1933年3月自己クーデター起こし独裁開始した。親ファシズム的な傾向有していたテラ1934年新憲法制定し言論労働運動弾圧行いスペイン内戦に際してスペインフランシスコ・フランコ政権との友好関係保ったが、ウルグアイ国民このような政策望んでいなかったために、1938年選挙敗れ辞任した1938年コロラド党民主派からアルフレド・バルドミール(スペイン語版)が大統領就任すると、バルドミールは親ファシズム外交改め国内民主化努めた第二次世界大戦勃発するウルグアイは親連合国姿勢を採り、ラ・プラタ沖海戦ナチス・ドイツポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー中立国だったウルグアイモンテビデオ入港した際も、親連合国的な中立外交貫いたグラーフ・シュペー英独三国外交戦の末にモンテビデオ沖で自沈した。 第二次世界大戦後1947年コロラドからバッジェの甥のルイス・バッジェ・ベレス(スペイン語版)が大統領就任した。ルイス・バッジェの下では急速な工業化進み福祉国家実現図られた。ルイス・バッジェは故バッジェの意志継いで1951年憲法改正し大統領制廃止して9人の委員からなる国民執政委員会(コレヒアード)により行政を行うウルグアイ独自の新制度導入した文化面では、文学において19世紀末から20世紀初頭にかけてモデルニスモ文学ウルグアイでも隆盛迎えた。詩の分野ではフリオ・エレーラ・イ・レイシグが活躍し散文においてもエドゥアルド・アセベド・ディアス、ハビエル・デ・ビアナ、カルロス・レイレス、オラシオ・キロガらが活動したまた、モデルニスモ文学重要な役割果たしたホセ・エンリケ・ロドーは『アリエル』(1900)でアリエル主義唱えアメリカ合衆国物質文明対比してラテンアメリカ精神文明称揚した後期モデルニスモにおいてはフアナ・デ・イバルボウロウとデルミラ・アグスティーニ二人の女詩人活動したモデルニスモの後は『井戸』(1939)のフアン・カルロス・オネッティや、フェリスベルト・エルナンデスなどが活動した音楽においては、アルゼンチン勢のヨーロッパで成功助けとなり、ウルグアイタンゴ国際的に成功収めた。この時期にはヘラルド・マトス・ロドリゲスの「ラ・クンパルシータ」(1917のような曲が生まれた1950年ブラジル開催され第四回FIFAワールドカップウルグアイ代表ブラジル代表破り二度目優勝遂げた

※この「南米のスイス(1903年-1955年)」の解説は、「ウルグアイの歴史」の解説の一部です。
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