南米へ逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:46 UTC 版)
1949年、戦争犯罪追及を逃れようとする元ナチ党員の多くとともに、メンゲレはアルゼンチンに逃亡し、中絶手術医など種々の仕事に就いたのち、母国の富裕な家族の支えで薬品会社の共同経営者になる。1949年から1959年の間、彼はブエノスアイレスに住み、家族の財政的支援を受けた。1954年、メンゲレは妻・イレーネと離婚し、1956年には変名でドイツを訪れ、1958年に弟・カールの未亡人のマルタと再婚した。なお、イレーネとの離婚の際、離婚手続きを行うためにドイツ大使館に出向いて書類に本名で記載している。この書類とともに提出された写真が戦後公式記録に残る唯一の写真となった。 彼女と息子はメンゲレに会うためにアルゼンチンへ移る。1960年のアドルフ・アイヒマン逮捕以降、イスラエルの追及を逃れるためにチリのコロニア・ディグニダなど、南米諸国を転々とする彼を追い詰めようと国際逮捕状が出されるなどの国際的な捜査が行われた。しかしドイツ人コミュニティやこれらの政府の助けにより、様々な名で隠れ住んだ彼は逮捕されることなく戦後35年間を生き延びた。 メンゲレが1960年代に訪れていたカンディド・ゴドイというブラジルの村では、ナチスの主張する「アーリア人的特徴」を備えた双子が次々に生まれる現象が起きている。この村では1960年代にメンゲレ風の医者に薬を提供された証言が残っており、実際にこうした現象が起きていることからメンゲレの実験が成功したとみる学者もいる。だが、孤立され比較的に近親交配率が高い小さな村で双子が多く生まれるのはカンディド・ゴドイだけではなく、しかもこの村で双子が生まれる高い確率は1990年代までも続いていたため、メンゲレが直接関係していた可能性は薄いとブラジルの学者は主張している。
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