南米への移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/18 10:01 UTC 版)
1903年(明治36年)、岩国藩士族で台湾総督府郵便部長を経てペルーへの日本人移民を事業として行っていた田中貞吉(1857-1905)は第2次ペルー移民を計画していた。また当時、南アメリカのアマゾン地帯では、自動車用タイヤの普及による世界的なゴム需要の高まりをうけて天然ゴムの採取で活況を呈する状況であった。このため田中は、日本人移民をアマゾンのゴム採取に送り込むことを目論み、「秘露開發會社」を組織した。この会社には長兄の堀内良平が出資した。かねてより海外での仕事を望んでいた堀内伝重は、この田中の移民事業に参画することになった。ペルー渡航にあたり、農商務省からペルーでの天然ゴム生産に関する調査を嘱託する目的の嘱託調査員という身分が与えられた。 1903年(明治36年)の秋、横浜港からペルーへ向かった。しかしペルー到着後まもなく、腹膜炎で入院と療養を強いられた。 1905年(明治38年)、日本に帰国中であった田中貞吉が死去すると、堀内伝重がインカゴム会社の責任者となり、移民団の監督一切を引き受けることになった。堀内伝重は、ゴムの採取、コカの栽培、石油掘削等を試みた。また兄の堀内良平を通じて日本の財界人に出資を求めた。堀内良平は、この件を三井の早川千吉郎に相談したところ、一度帰国して詳細を報告してから決めた方が良いとこたえた。 兄の堀内良平からの手紙を受けとった堀内伝重は一時帰国を決め、ペルーのリマへ向かった。しかし、そこで堀内伝重を頼ってアマゾンへと向かっていた山梨県の親族知人と出会った。堀内伝重は日本への帰国をあきらめ、親戚一同と再びアマゾンへ戻った。 インカゴム会社はアマゾンのゴム景気により業績は上がった。このころの堀内伝重はリベラルタやルレナパケなど、アマゾン流域を精力的に調査し記録を残している。さらに日本人移民のアマゾン入植をすすめるために、日本外務省に申請を行った。しかし、第一次世界大戦開戦により、アマゾン産のゴム価格が急落した。インカゴム会社もゴム採取事業を停止に追い込まれた。ゴム採取に従事していた日系移民も職を失うことになった。困窮した日系移民に対して、堀内は彼らの救済に尽力したと伝わっている。
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