アマゾンへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:46 UTC 版)
「ヘンリー・ウォルター・ベイツ」の記事における「アマゾンへ」の解説
1848年にウォレスの誘いでアマゾンに標本採集のための旅に出ることになった。ベイツは紡績業にはなじめず、博物学の興味を捨てることはできなかった。海外で標本採集をすれば財産を築けるかもしれないと知った二人は大英博物館で哺乳類や鳥類の採集の約束を取り付け、またフッカーからは植物標本の採集を依頼された。そのほかの標本はズーオロジスト誌で知り合った仲介人に売却を依頼して、4月にリバプールを出発し、5月にパラ(現ベレン)に到着した。彼らは最初の年に、街の近くに居を構えて鳥と昆虫などを採集した。モルフォ蝶を始め300種類を超える新種の生物を採集した。数ヶ月間その生活を続けてから、分かれて採集することになる。二人とも理由を書き残していないためその理由は明らかではないが、2年後には友好的に再会したこと、また生涯友人であり続けたことから、トラブルや意見の相違が原因では無かったようである。 ベイツはトカンティス川沿いのカメタに向かった。1850年にパラへ戻り、ウォレスと再会した。それからアマゾン川を遡りマナウスを経由して最終的にエガ(テフェ)に到達した。そこで4年あまり採集を続けたが、1855年に再びパラに戻り、このとき黄熱病に倒れた。ベイツは回復したが、兄を追って渡航してきていたウォレスの弟、ハーバート・ウォレスも黄熱病にかかっており、その最期を看取ることになった。 体調が戻ると再びアマゾン川を遡り、さらに4年間採集を続けた。この間、インディオたちの風俗や儀式に感心し後の著書で詳しく論じている。人種的偏見が薄かったベイツの視点は当時の風習を知るうえで重要な資料となっている。また同時にアマゾン川流域の地理調査も行ったと見られる。1859年にイギリスに帰国する。このとき、ウォレスと同じ失敗をしないように3隻の船に分けて標本を持ち帰った(先に帰国していたウォレスは、不運にも帰りの船が火事にあい、全ての標本資料を失っていた)。彼が収集した標本は、以前にロンドンへ送った物も含めると、主に昆虫からなる、8,000種を超える新種を含む14,000種以上の生物であり、あまりに膨大なためダーウィンやハクスリーが支持を表明するまで真偽を疑う者が少なくなかった。
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