南米との交流の可能性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:11 UTC 版)
ポリネシアと南米の間で航海が行われた確実な証拠は見つかっていない。しかし、ポリネシア人の主食のひとつであるサツマイモは南米原産であり、ヨーロッパ人の来航前に既にポリネシア域内では広くサツマイモが栽培されていた。そのうえサツマイモは、アンデス地方のケチュア語族ではクマル(Kumar)、ポリネシアのトンガ語ではクマラ(Kumala)と呼称される。そのほかに、ポリネシアやミクロネシアで一般的な、肉類やイモなどの食材をバナナやココヤシの葉で巻いた後、焼け石とともに土中に埋めて蒸し上げるウム料理という調理法は、ペルーのパチャマンカ(Pachamanca)やチリ南部チロエ島のクラント(英語版)(Curanto)として南米の太平洋沿岸地域にも存在するなど、古代ポリネシア人が南米までの航海を行った可能性は否定できない。 ペルー太平洋岸の民族にはポリネシアとの交流を示唆する伝承が存在する。インカ帝国の10代サパ・インカ(皇帝)であるトゥパック・インカ・ユパンキは、1480年頃に20,000の兵力で太平洋上の「ニナ・チュンピ(炎の帯)」、「ハフア・チュンピ(離れた帯)」の2つの島に遠征し、財宝を持ち帰ったとされている。またこれに対し、ポリネシア側でもトゥアモトゥ諸島に東からトパという英雄が来航したという伝承がある。更に、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)の従兄弟であるペドロ・ピサロ(英語版)(Pedro Pizarro)が1570年に残した記録には、「ペルー太平洋岸の民族は海の向こうと交流を行っていたが、今(1570年)では大海流(フンボルト海流)によって妨げられて接触が断たれている」との記述がある。 また、ノルウェーの人類学者であるトール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)はポリネシア人の南米起源説を提唱し、1947年にコンティキ号という筏でペルーのカヤオ沖80kmの地点からトゥアモトゥ諸島ラロイア環礁(英語版)まで、6,980kmの距離を101日で航海した。 しかし2014年に、ポリネシアの遺跡で出土したニワトリの骨から検出したミトコンドリアDNAと、南米の古代と現代のニワトリのミトコンドリアDNAの比較解析が行われた結果、両者に遺伝的関連性はみられなかった。
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