リチャード1世、ジョン王の治世期
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「ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)」の記事における「リチャード1世、ジョン王の治世期」の解説
1189年の秋、既に40歳を越えていたウィリアムは、リチャード1世の勧めでイザベル・ド・クレアと結婚した。イザベルは17歳であったが、当時の貴族の次男以下はある程度栄達してからでなければ嫁のなり手がなかったため、取りたてて晩婚というわけでもない。これによって、ウィリアムは領土を持たない貧乏貴族から、イングランド、ウェールズ、ノルマンディー、アイルランドに広大な領土を持ち、かつ宮廷で権威のあるペンブルック伯の身分を手に入れた。 1190年、リチャード1世が第3回十字軍に参加すると、ウィリアムは摂政に任命されるが、後にジョンが最高行政長官(ジャスティシャー、ラテン語のユスティティエ。王のイングランド不在時の行政の責任者)のウィリアム・ロンシャン(en)を追放する際、ジョンの味方をした。しかしやがてウィリアムはジョンの関心があまりにリチャード1世と異なっていることに気づき、1193年に体制派が起こした反乱に参加している。リチャード1世はロンシャン追放に協力したウィリアムを許しただけでなく、死の淵でウィリアムをルーアンの管理人に指名し、空位期間中の王室財産の管理も任せている。この間、1194年に父と同名の兄ジョンが死去したため、兄が在職していたアール・マーシャルを引き継いだ。 1199年のジョンのイングランド王即位に協力する一方、ノルマンディーの領地のためにフランス王フィリップ2世にも臣下の礼をとってもいる。1207年からアイルランドのレンスターへ移住し、1212年までそこで領地経営に従事、同年のウェールズでの戦争のために召集された。1215年にラニーミードでジョンがマグナ・カルタに調印した際、貴族達との調整役を務め、第一次バロン戦争のさいにイングランド王家に忠誠を尽くした。そのためジョンの覚えもめでたく、死の床でジョンは9歳のヘンリー3世の王位継承に尽くすように言い残した。
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