リチャード1世とフィリップ2世によるアッコン征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 02:18 UTC 版)
「第3回十字軍」の記事における「リチャード1世とフィリップ2世によるアッコン征服」の解説
1191年、イングランド王リチャード1世(獅子心王)とフィリップ2世は共に海路ではあるが、関係が悪化していたため、別々にパレスチナに到着した。リチャードの船団はその途上で嵐にあい、何隻かがキプロス島まで流されたが、その時東ローマ帝国から離反していた島の統治者が、漂着した財宝を略奪し、乗員らを身代金目当てで牢に入れたため、リチャードは戦って5月末までに島全体を占領した。そして一旦はテンプル騎士団に島の統治を委ねるが、翌年、旧知のエルサレム王国の前国王ギー・ド・リュジニャンにこの島を譲渡した。一方、フィリップはティールに到着して、エルサレム王国の王位継承を主張しギーと対立していたモンフェラート侯コンラート1世と同盟を結んだ。 1191年4月、フィリップらは先のフリードリヒの敗残兵を加えてアッコンの攻囲を開始し、6月にはリチャードの軍が包囲に加わった。アイユーブ朝軍は包囲を破ろうと試みたが撃退され、7月12日アッコンは陥落した(アッコン包囲戦)。 しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に内部抗争が起きた。ドイツ人たちの司令官であったオーストリア公レオポルト5世は、リチャードやフィリップと同列に扱われることを欲し自身の旗を掲げたが、リチャード側はこれを撤去したため、激怒したレオポルトは十字軍から離脱し、帰路についた。一方フィリップは、病気を理由に7月末に帰国し、リチャードは十字軍でただ一人残ったキリスト教国の君主として戦うはめになった。
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