リチャード2世の凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:47 UTC 版)
「グリンドゥールの反乱」の記事における「リチャード2世の凋落」の解説
イングランド王リチャード2世 (1367年-1400年) は14世紀最後の10年間で、彼の王国を強固に掌握し、常に彼の権威を脅かしてきた有力者の権勢を弱めるために、大胆な計画を打ち出していた。その計画の一環としてリチャードは、彼の権力基盤をイングランドの南東部とロンドンからチェシャー州へと移し、組織的にウェールズの近くに構築し始めた。ウェールズは王家による直接的な統治の下で、半自治的な封建地域、主教による管轄区、州、及び、領域などがパッチワーク様になった状態で統治されていた。リチャードは彼の政敵を排除し、彼らの土地を取り上げ、自分の側近に与えた。彼はそうすることにより、新しい領地に新設されたポストを埋めるために、ウェールズの全ての階層の人々を引き上げた。彼らにとって、リチャード2世による治世の最後の年はチャンスに満ちていた。しかしながらイングランドの有力者にとってそれは、リチャードが危険なほど制御不能であることを意味していた。 1399年、ランカスター公領の相続人でリチャードにより排除されたヘンリー・ボリングブルック (Henry Bolingbroke、1367年-1413年、後のヘンリー4世) は自分の土地を取り戻すために帰ってきた。彼は蜂起しリチャード2世に会うために行軍した。リチャードはボリングブルックに対処するためにアイルランドから慌ててウェールズに戻ったが、初代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (1341年-1408年) により捕えられた。リチャードはおそらくヘンリーの土地の返還に関して議論するために、フリント城 (英語版) でボリングブルックに会おうとしてコンウィ城から向かう途中だった。リチャードはロンドンに連れて行かれる前にチェスターで投獄された。議会はすぐにヘンリーを摂政とし、その後ヘンリーは即位した。リチャードは1400年1月のイギリス貴族による公現祭の反乱 (the Epiphany Rising (英語版)) の失敗のすぐあとポンテフラクト城 (英語版) で亡くなった。彼の死はしばらくの間一般には知られないままだった。ウェールズではオワイン・グリンドゥールのような人々は、誰を忠誠心の対象とするのか彼らの人生の中で初めて質問された。ウェールズ人は一般的にリチャード王を支持していた。彼はプリンス・オブ・ウェールズ として父親であるエドワード黒太子 (1330年-1376年) を承継していたからである。リチャードが排除されたことにより、ウェールズの人々の上昇の機会がより限定されていた。多くのウェールズ人にとって、彼らと彼らの未来がどうなるのか不確かなままだった。 しばらくの間、退陣した王の支持者が多数残っていた。不穏な空気がイングランドとウェールズの境界に沿って形成されていた。
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