リチャード1世の解放、領地奪還、死
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「アンジュー帝国」の記事における「リチャード1世の解放、領地奪還、死」の解説
リチャード1世は難しい立場にあった。フィリップ2世が領土の大半を掌握し、アミアンとアルトワを相続していたからである。イングランドはリチャード1世の最も確保された領土であった。というのも十字軍遠征に同行したヒューバート・ウォルターがイングランドの最高行政長官(ユスティティエ、ジャスティシャー、イングランド不在時の王に代わる行政の最高責任者)に任命されていたからである。リチャード1世はジョンが太守を務めるアイルランドをジョンから取り上げ、イングランド北部を求めるスコットランドのウィリアム1世の要求を退けた。 リチャード1世は単に自らの領地を取り戻すためにイギリス海峡(ドーバー海峡)を渡った。ジョンはエヴルーの守備隊を殺害し、街をリチャード1世に譲ることでフィリップ2世を裏切ったからである。年代記作家のギヨーム・ル・ブルトンは「ジョンは最初に父(ヘンリー2世)を裏切り、次に兄(リチャード1世)を裏切り、そして今主君(フィリップ2世)を裏切った。」と語った。将来のナバラ王となるサンチョはこの争いに参加してアキテーヌを攻撃し、アングレームとトゥールを占領した。リチャード1世自身が卓越した指揮官として知られていた。この戦争の初戦はリチャード1世側が幾つかの挫折に見舞われ困難を極めた。他方、フィリップ2世も卓越した指揮官かつ政治家であった。しかしながら10月までに新たなトゥールーズ伯となったレーモン6世はカペー家を裏切り、リチャード1世に加勢した。レーモン6世に続いて、将来ラテン皇帝となるフランドル伯ボードゥアン4世がリチャードの側に加勢した。ボードゥアンはアルトワをめぐってフィリップ2世と争っていたからであった。1197年にハインリヒ6世が死去してリチャード1世の甥に当たるオットー4世が新皇帝となった。熟練の指揮官であるブローニュ伯ルノー・ド・ダンマルタンもフィリップ2世を見捨てた。ボードゥアン4世はアルトワを侵略し、サン・トメールを占領し、リチャード1世はベリーに軍を進めてパリ付近のジゾールでフィリップ2世に手厳しい敗北を与えた。休戦が受け入れられ、リチャード1世はノルマンディーの大半を取り戻し、以前よりも多くのアキテーヌの地を獲得した。リチャード1世は再び反乱に対処しなければならなかったが、今回はリモージュであった。1199年4月にシャーリュー=シャブロールで弓矢を受けて壊疽にかかって死んだ。リチャード1世の遺体は父と同じくフォントヴロー修道院に埋葬された。
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