リチャード1世とサラーフッディーンの休戦協定
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「第3回十字軍」の記事における「リチャード1世とサラーフッディーンの休戦協定」の解説
8月20日、リチャードはアッコン降伏時の協定をサラーフッディーンが遵守していないとして、拘留されていたムスリム2700人あまりを処刑した。リチャードはエルサレムを攻撃するための出発地として港町ヤッファ(ヤッフォ)の奪取を計画した。9月にアルスフを行軍していた彼らをサラーフッディーンが攻撃したが、リチャードはこの戦いで目覚しい勝利を挙げた(アルスフの戦い)。1192年1月にはエルサレムへの進撃の準備が整ったが、サラーフッディーンは軍勢を増強し、都市を要塞化して待ち構えていた。リチャードは2回ほどエルサレムに接近したが、サラーフッディーンの大軍を目の当たりにして軍を退いた。7月に入るとサラーフッディーンがヤッファの奪還に動き出すも、7月31日の戦闘で数では勝っていたはずにもかかわらずリチャードの軍に敗れ、失敗した。 リチャードの軍勢は疲弊し、いつまでたってもエルサレムを落とせないことに対する不満や国へ帰りたいという不満が軍の中に渦巻いていた。また、一足先に帰国したフィリップ2世が末弟ジョンを扇動し英国領を侵略しているという情報も入っていた。一方のサラーフッディーンも、自身の年齢からくる健康不安や、ムスリム内部の不満分子を懸念し、戦いを長引かせることを望まなかった。 リチャードとサラーフッディーンは戦闘と同時に1年以上に渡って交渉を重ね、1192年9月2日、アッコンを含みティールからヤッファに至る沿岸部のいくつかの港をエルサレム王国の管理下に置き、エルサレムはイスラム教徒の統治下に置くという最終的な休戦協定を結んだ。また但し書きとして非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可するという条件も加えられた。9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。
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