ウィリアム3世の治世
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「ロバート・サットン (第2代レキシントン男爵)」の記事における「ウィリアム3世の治世」の解説
1688年に貴族院でウィリアム3世の即位を支持したため、以降はウィリアム3世から官職や外交職を任命されるようになった。1689年にブランデンブルク選帝侯領駐在特命全権公使に任命され、同年11月10日に帰国した。1690年5月、カンバーランド公ジョージの主馬頭を務めていたコーンベリー子爵(英語版)がウィリアム3世とともにアイルランドに向かうことを拒否すると解任され、代わりにレキシントン男爵が任命された。レキシントン男爵はアイルランド行きには特に抵抗はなく、同年のリメリック包囲戦(英語版)でウィリアム3世に同伴した。1691年5月にスペイン駐在大使に任命されたが、就任しなかった。 1692年3月17日に枢密顧問官に任命された。同1692年夏にアン王女の宮廷に随行したが、マールバラ伯爵夫人サラ・チャーチルがアンの宮廷を支配するようになると追い出された。また同年にカンバーランド公ジョージの主馬頭を解任されたが、その補償としてウィリアム3世の寝室侍従(英語版)に任命され、1702年までを務めた。同年にも国務大臣、国王私室財務官、メアリー2世の会計長官など官職就任の噂が流れたが、いずれも実現に至らなかった。 1693年5月に志願兵としてフランドルに向かい、8月にハンブルクに派遣されてザクセン=ラウエンブルクの継承問題交渉に参加した後、一旦帰国して、1694年4月から1697年12月までウィーン駐在特命全権公使を務め、レイスウェイク条約が締結されたときのウィーン駐在公使であった(ただし、1696年に交渉が始まった時点ではレキシントンがレイスウェイクでの交渉役に指名されておらず、1697年1月にようやく指名を受けたが、実際の交渉に加わずウィーンに残る予定だったという)。1698年初に帰国した後、フランス駐在大使、コンスタンティノープル駐在大使への任命の噂が流れたが、最終的には7月にドイツ諸侯を担当する大使になり、9月にオランダに向かった後翌年初までに帰国した。1699年6月より下級商務卿(Lord of Trade)を務め、1700年夏に再び国務大臣就任の噂が流れた(今度も実現しなかった)。しかし、この頃より徐々に引退を進めることになり(理由には財政難と健康上の問題が挙げられる)、アン王女が女王に即位すると1702年5月に下級商務卿からも辞任した。
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