ウィリアム3世の崩御と後継者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:03 UTC 版)
「ウィリアム3世 (イングランド王)」の記事における「ウィリアム3世の崩御と後継者」の解説
1702年、ウィリアム3世はハンプトン・コート宮殿で乗馬中、モグラの穴に馬が脚を踏み入れたために落馬して重体となり、ケンジントン宮殿で51歳で崩御した。スコットランド人のジャコバイトの間で、穴を掘ったモグラを賞賛する歌が流行した。王位はアンが継承、打倒フランスの願いはイングランド軍総司令官に任命されたマールバラ伯(後にマールバラ公)ジョン・チャーチルに託され、スペイン継承戦争で同盟軍を率いてフランス軍と戦うことになる。 一方、オラニエ=ナッサウ家はウィリアム3世の崩御によって男系が断絶するため、傍系(ウィレム1世の弟ヨハンの4世孫であり、叔母アルベルティーネ・アグネスの孫=ウィリアム3世の従甥でもある)のヨハン・ウィレム・フリーゾが相続人に指名されていた。しかしウィリアム3世が崩御すると、かつて後見人だったブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子でオラニエ=ナッサウ家の血を引く従弟のプロイセン王フリードリヒ1世が相続権を主張し、フランスもヨハン・ウィレム・フリーゾの相続を報復的に妨害した。この問題はヨハン・ウィレム・フリーゾの息子ウィレム4世の代になってようやく決着する。
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