ジェームズ6世の即位
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エリザベス1世の晩年にあたる1601年より、エリザベス1世の寵臣サー・ロバート・セシルはジェームズ6世と秘密裏に文通して(英語版)、王位継承が円滑に行われるよう準備した。セシルはジェームズ6世への助言として、王位継承についてエリザベス1世に圧力をかけず、あくまでも敬意をもって親切に接するようにと述べた。この策略は成功をおさめ、エリザベス1世はジェームズ6世への手紙で好感を示し、感謝を述べた。1603年3月、エリザベス1世がまもなく死の床につく頃、セシルはイングランド王即位宣言の草案をジェームズ6世に送った。各地の要塞は警戒をはじめ、ロンドンの守備も補強された。そして、エリザベス1世は3月24日未明に死去、ジェームズ6世の王位継承はわずか8時間にも満たないうちにロンドンで宣言された。ジェームズ6世によるイングランド国王即位という報せは、各地で特に反発や騒乱もなく受け入れられた。 1603年4月5日、ジェームズはエディンバラを発ち、ロンドンに向かったが、3年毎にスコットランドに戻ることを約束した(ただし、この約束は果たされず、ジェームズがスコットランドに戻るのは1617年の1回だけだった)。ジェームズはエリザベス1世の葬儀が終わった後にロンドンに到着するよう、わざと緩慢に進み、各地の名士も気前よくジェームズを歓迎した。イングランドの住民はジェームズの王位継承が社会不安や外国からの侵攻を引き起こさなかったとして歓迎し、ジェームズが各地を訪れると群れを成して会いに行った。ジェームズがロンドンに入城したときも同様の状況であり、国王を一目見るために我先に訪れた群集が怪我する事件もあった。7月25日にイングランド王としての戴冠式が挙げられ、トマス・デッカー(英語版)やベン・ジョンソンが寓意詩を著したが、疫病の流行により祝祭は制限された。それでもデッカーが述べたように、街路が人であふれるほどの盛況だった。 スコットランド人による統治への畏怖がこの時点までに残っている可能性もあったが、ジェームズのロンドン到着で待望論が高じた。というのも、イングランドはすでに王位継承問題に長年悩まされており(ジェームズは即位時点で息子を2人をもうけていたため、その点ではある程度安心できた)、エリザベス1世の治世晩年もそれほど明るいものではなかったからである。しかし、ジェームズへの歓迎ムードは短期間で終わり、また彼の行動も反感を買うことが多かった。その最たるものとしてはジェームズの国王としての称号であり、彼は「グレートブリテン及びアイルランド国王」(King of Great Britain and Ireland)として統治することを望んだが、イングランド議会はそれに強く反対した。 ジェームズ1世は1604年3月19日にイングランド議会ではじめて演説し、「私が夫で島全体が合法の妻であり、私が頭で島が体であり、私が牧羊者であり島が羊である。福音書に基づくキリスト教国王たる私が、2人の妻を持つ重婚者、分離したあるいは怪物のような体を持つ頭、二分された羊を飼う牧羊者であると考える輩がいないことを望む。」と述べた。しかし、ジェームズ1世の野望はほとんど歓迎されず、イングランド庶民院の議員は相次いで「イングランド王国」の国名と国土を守ることに動き、法律の更新や条約の再交渉を課題として挙げた。ジェームズ1世はそれまでスコットランドの半封建制でただの演出に近いスコットランド王国議会(英語版)しか経験しておらず、君主に楯突いてきたイングランド議会からの攻撃にショックを受けた。その結果、ジェームズ1世はイングランド議会を無視し、1604年10月20日の「国王陛下の称号に関する宣言」(Proclamation concerning the Kings Majesties Stile)で「グレートブリテン、フランス(英語版)及びアイルランド国王、信仰の擁護者など」の称号の使用を宣言した。この強引な行動はスコットランドでさえ歓迎されなかったが、イングランド・スコットランド両議会は称号問題を「検討する」よう催促された。結局、検討は数年間続いたが、ジェームズ1世の望んだ結論は出なかった。
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