ジェームズ2世の亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 02:36 UTC 版)
不利を悟ったジェームズ2世は、重臣のハリファックス侯ジョージ・サヴィルとゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィン、ノッティンガム伯ダニエル・フィンチの3人をウィレム3世の元へ派遣、交渉による妥協を見出そうとした。一方で12月20日(12月10日)にまず王妃と王子をフランスに亡命させ、翌日の12月21日(11日)に自らも亡命に走ったが、ケントで捕らえられた。王が何の抵抗もせず亡命に走って捕らえられたことは議会側には思いもかけない展開であったが、議会はメアリーの立場を重んじて王を処刑せずそのまま留め置いた(処刑すれば殉教者として同情が集まるという判断もあった)。 ジェームズ2世不在のロンドンは不穏な空気に包まれ、ジェームズ2世の義弟(メアリーとコーンベリーの叔父)に当たるロチェスター伯ローレンス・ハイドがロンドンに貴族・聖職者を集めて暫定政権を発足、抵抗する拠点にはオランダ軍との交戦を禁じる通達を送り、ウィレム3世の宣言通りに自由な議会を開くことを約束、ウィレム3世の到着までに治安維持に務めた。ウィレム3世と交渉した3人は21日にロンドンへ戻り暫定政権に加わり、ハリファックスが議長となり引き続き事態の収拾に努め、ウィンザーまで進軍したウィレム3世との交渉を経てジェームズ2世の再度の亡命を認めた。 12月22日(12月12日)、ジェームズ2世の側近である近衛騎兵隊長のフェヴァシャム伯ルイス・ド・デュラスはジェームズ2世の命令を受けて軍隊を解散させたが、武装解除していなかったためかえって不穏な状態となり、暫定政権は兵に復員を呼びかけねばならなかった。一方、イングランド艦隊司令官のダートマス男爵ジョージ・レッグは12月24日(12月14日)に暫定政権の指示を受け取り交戦を停止、陸海軍は両方共オランダ軍への抵抗を止めた。 ジェームズ2世は12月26日(12月16日)にロンドンへ帰還、ウィレム3世とロンドンでの会見を提案したが、ウィレム3世とその支持者達はおろか暫定政権も中途半端な妥協は認めない姿勢を取り、ジェームズ2世の手紙をウィレム3世に渡したフェヴァシャムは一時ウィンザーで捕えられている。そして、ジェームズ2世は12月28日(12月18日)にウィレム3世の要請でロンドンを退去、5日後の1689年1月2日(12月23日)にフランスへ亡命、ウィレム3世は28日にジェームズ2世退去後のロンドンへ入った。
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