ジェームズ1世の初期の治世とは? わかりやすく解説

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ジェームズ1世の初期の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)

火薬陰謀事件」の記事における「ジェームズ1世の初期の治世」の解説

ジェームズカトリック教徒対す態度は、前王よりも穏健であり、おそらく寛容であった。「静かで、見かけでも法に従う者は迫害しない」と誓い、また「頭と身体が共にこの島から離れて、海の向こうへと運ばれくれれば私は嬉しく思う」と述べたように、死刑よりも国外追放の方が良い解決策だと考えていた。カトリック教徒中にはジェームズの母であるスコットランド女王メアリー殉教が、ジェームズカトリックへの改宗促すではないか考える者がおり、こうした希望的観測ヨーロッパカトリック修道院にもあった可能性がある。また、エリザベス女王時代から続く英西戦争は、プロテスタント新興国であるイングランドと、カトリック列強であるスペインという側面持っていたが、国王に即位したジェームズ停戦命じ、これを受けてフェリペ3世もまた両国厳密にはまだ戦争状態にあったにもかかわらず特使のドン・ファン・デ・タシス(英語版)を派遣してその即位祝福したまた、戦争一環としてイングランドオランダ独立求め八十年戦争に際してプロテスタント反乱軍支援していたが、これについてもジェームズオランダに残ったカトリック領の支配者であるアルブレヒト7世使節を受けるなど融和的態度見せた。この戦争参加していたカトリック教徒にとって、イングランド力ずくカトリック王政取り戻せるかもしれない可能性魅力的なことであったが、1588年スペインによるイングランド侵攻失敗アルマダの海戦)を受けてローマ教皇庁イングランド王位にカトリック君主復帰することには、長期的な展望を持つようになっていた。結果としてジェームズスペインとの和解成功し、翌1604年には両国ロンドン条約調印して戦争終結した16世紀後半カトリック教徒たちはエリザベス1世毒殺計画始めとして、ヨーロッパイングランドプロテスタント為政者対す暗殺計画をたびたび起こしたイエズス会のフアン・デ・マリアナ(英語版)が1598年刊行した『王と王の教育について』では、1589年カトリック狂信者刺殺されフランス王アンリ3世の暗殺明白に正当化し1620年代まではイングランドカトリックの間でも暴君をその座から排除するためには王殺し正当化されうると考えていた。「かなり神経質になっていた」ジェームズ政治的な記録物多くは、「カトリック教徒による暗殺脅威と『信仰異端者と共に歩む要はない』という(カトリック教徒の)主張への反論関係していた」。

※この「ジェームズ1世の初期の治世」の解説は、「火薬陰謀事件」の解説の一部です。
「ジェームズ1世の初期の治世」を含む「火薬陰謀事件」の記事については、「火薬陰謀事件」の概要を参照ください。

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