ジェームズ1世の側近として出世
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「フランシス・ベーコン (哲学者)」の記事における「ジェームズ1世の側近として出世」の解説
1603年3月にエリザベス1世が崩御、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位した。ベーコンは新国王がエセックス伯と親しかったため当初不安を感じていたが、国王への働きかけが成功して7月にナイトに叙され、1604年にエリザベス1世の時と同じ特命の学識顧問官に任命され国王の側近として重用された。ジェームズ1世の即位に尽力したセシルもソールズベリー伯に叙爵されている。 エリザベス朝期およびジェームズ1世期の初期には栄達に恵まれなかったが、ジェームズ1世時代にコモン・ローの原則を守ろうとするコークに対してベーコンは国王大権を擁護したことでジェームズ1世に重用されるようになった。1603年に即位直後のジェームズ1世へ献呈した『イングランドとスコットランド両王国の幸福な統合についての論考』で持論を展開、両国対等の形での統合、両国の住民の権利・法に配慮した統一論など慎重な方策は記したが、統合は積極的に賛成の立場を取った。またこの時期の1605年に『学問の進歩』を出版する(2巻構成で、1603年と1605年に書いた著作を合わせて出版)。 1604年3月に開かれた議会でジェームズ1世がイングランドとスコットランドの合同を望み、ベーコンも両国の統合検討委員会に委員として選ばれ、1604年3月から1607年12月まで断続的に開かれた議会で統合問題に当たった。しかしイングランド議会が統合に反対、ジェームズ1世が統合後の国名として挙げたブリテンの名前も反対、両国間の自由交易やスコットランド人流入にも反対が続出した。コモン・ロー法律家達もイングランド法のコモン・ローがスコットランド法との統一で変質するとの懸念から反対に回り、ベーコンは大勢が反対する中で1607年2月に統合反対に反論、統合の長期的な利益を強調し、両国の法の統一も変質は起こらないこと、スコットランド人の帰化に賛成して統合を段階的に進めることなどを述べたが、反対論は覆らず統合は実現しなかった。それでもベーコンの活動がジェームズ1世に注目されたのか、6月に法務次官に任命された。 一方、1606年に友人でロンドン市参事会員ベネディクト・バーナムの娘アリス・バーナムと結婚、持参金でベーコンの財政状態は改善された。アリスとの間に子供は無く結婚生活について不明だが、1612年に出版されたエッセイにベーコンが結婚について否定的な文章を書いていること、死の前年に当たる1625年に書いた遺書で一旦妻に与えると決めた土地や家具を取り消して遺産相続の権利を否定していることから、結婚生活が上手くいかなかったことが示唆されている。 1607年に法務次官になったことを皮切りに順調に栄達し、1613年には法務長官、1616年に枢密顧問官、1617年には国璽尚書、1618年には大法官となる。大法官(貴族院議長)就任に際してヴェルラム男爵に叙され、貴族院議員となった。1621年にセント・オールバンズ子爵に叙された。
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