ジェームズ2世との対立
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「ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)」の記事における「ジェームズ2世との対立」の解説
姉アンがジェームズ2世の先妻だった縁もあり兄と共に重用されたが、ジェームズ2世に不信感を抱いていた。ロチェスターはプロテスタントのイングランド国教会を奉じていたが、ジェームズ2世はカトリック教徒だったため、カトリックと非国教徒を登用していくジェームズ2世の方針とカトリックの勢力伸長を警戒していたからである。 1686年、ジェームズ2世はカトリックの神学者を通してロチェスターを改宗させようとしたが拒絶されたため、カトリックとプロテスタント双方の牧師を選んで論争させることを伝え、ロチェスターが同意したため11月30日にホワイトホール宮殿で極秘に論争が行われた。ところがこの会議では決着が着かず、ロチェスターは再度開催を要求してジェームズ2世も了承したが、ジェームズ2世は12月17日にロチェスターにカトリックへの改宗か辞任かを迫り、拒絶したロチェスターは翌1687年1月4日に罷免された。アイルランド総督だった兄もジェームズ2世が派遣した副官のティアコネル伯リチャード・タルボットに実権を奪われ傀儡の地位に過ぎないことに不満を抱き2月に辞任、ハイド兄弟を排斥したジェームズ2世は宗教の寛容を楯に腹心を取り立てたりプロテスタントを除いたりして勢力を伸ばしていった。 1687年4月に信仰自由宣言を発して寛容を目論み、7月に議会を解散したジェームズ2世は、次の総選挙に向けて親カトリック派の当選を狙い地方の統監と治安判事に寛容政策に賛成か反対かを尋ねる質問状を送り、反対した人物を更迭する方法を取った。ハートフォードシャー統監だったロチェスターも質問に答えたが、プロテスタントの保護が無くなった議会に議員を送らないと反対、更迭はされなかったが他の貴族達は寛容政策に危機感を抱くようになっていった。
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