ジェームズ2世時代
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「サラ・ジェニングス」の記事における「ジェームズ2世時代」の解説
1685年、ヨーク公がジェームズ2世として即位すると、反カトリックの風潮が強いイングランドは不穏な空気で包まれた。ジェームズ2世はそれでも国教を変えようと試みたが反発が強まり、通称『不朽の七人』(シュルーズベリー伯チャールズ・タルボット、デヴォンシャー伯ウィリアム・キャヴェンディッシュ、ダンビー伯トマス・オズボーン、ラムリー男爵リチャード・ラムリー、ロンドン主教ヘンリー・コンプトン、エドワード・ラッセル、ヘンリー・シドニー)らは、ジェームズ2世のプロテスタントの長女メアリー(後のメアリー2世)と彼女の夫のオラニエ公ウィレム3世(後のウィリアム3世。ジェームズ2世の姉メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの息子)を招聘し、カトリックのジェームズ2世を退位させようと企んだ。 1688年、ウィレム3世がオランダ軍を率いてイングランドに上陸すると、ジェームズ2世はアンと不穏分子との接触を断つため、アンとサラの2人をアンの住居ホワイトホール宮殿に軟禁させたが、監視の目をかいくぐって、アンとサラはオラニエ公派のノーサンプトン伯ジョージ・コンプトン(ヘンリー・コンプトンの甥、後に首相となったスペンサー・コンプトンの兄)邸へ逃れた。チャーチルとジョージ王子はそれまで王党派であり、ジェームズ2世と共にオランダ軍を迎え撃つためのイングランド軍に加わっていたが、事件前にオラニエ公支持派に転じオランダ軍に寝返ったため、脱走計画は事前にチャーチルが中心に動いていた。 名誉革命が成功し孤立したジェームズ2世は亡命、ウィレム3世とメアリー夫妻は翌1689年にイングランド王ウィリアム3世・メアリー2世に即位した。アンも2人の後継者として注目されるようになり、チャーチルはマールバラ伯爵に叙爵、アンは自分を勇気づけて安全に避難させてくれたサラとジョン夫婦を更に厚遇するようになった。もしジェームズ2世がオランダ軍を打ち負かしていたら、チャーチル夫妻は捕らえられて反逆罪で処刑されていただろう。
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