雌伏の時代
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「アーネスト・シャクルトン」の記事における「雌伏の時代」の解説
シャクルトンは、帰国直後、公式行事への出席や講演、社会参加といった忙しいスケジュールをこなした。そして名声を活かして事業で一財産築こうとした。彼が立ち上げようとした事業には、タバコ会社や、「エドワード7世半島」と重ね刷りされた切手のコレクターへの販売計画(シャクルトンがニュージーランド政府から南極の郵便局長に任命されていたことに基づく)、現在はルーマニアの一部である、ハンガリーのナジバーニャ近くで利権を獲得した鉱山の開発などがある。しかしこれらの投資はいずれも失敗し、主な収入源は講演旅行の報酬であった。彼は1910年9月に家族とともにノーフォークのシェリンガム(英語版)へ引越し、エミリーへ「私はもう決して南へは行きません。心からそう考えており今や自分の居場所は我が家です。」と書いていたにも関わらず、再び南へ向かうことを心に抱いていた。シャクルトンは、ダスラス・モーソンとアダレ岬(英語版)とガウスベルク山の間の南極海岸の科学探検について議論し、これを1910年2月に王立地理学会へ書き送っていた。 シャクルトンが南極点への遠征を再開するか否かは、1910年7月にカーディフを出発したスコット率いるテラノバ遠征の結果次第だった。1912年春までには南極点がノルウェー人のロアール・アムンセンに征服されたことが判明したが、スコットの遠征隊は消息不明であった。シャクルトンは、スコットランド人の探検家ウィリアム・スペアズ・ブルースが発表した後に中止した、ウェッデル海から上陸し南極点を経てマクマード湾へ南極を横断する計画に関心を向けた。資金調達に失敗していたブルースは、シャクルトンが彼の計画を採用することを喜んだ。ドイツ人探検家ヴィルヘルム・フィルヒナーも同様の計画を立て、1911年5月にブレーマーハーフェンを出発したが、1912年12月に彼の遠征が失敗したニュースがサウスジョージア島から届いた。そして、シャクルトンが未だ残されている「最も偉大な極地の旅」と評した南極大陸横断を実行に移した。
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雌伏の時代
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しかし、メアリー2世とウィリアム3世の治下、サラの立場は難しいものとなった。マールバラ伯夫妻はジェームズ2世時代よりも厚遇されたと喜んだが、この時よりサラはアンの側近としてその影響力が知られるようになった。不快感を示したメアリー2世は妹にサラを解雇するよう迫ったが、アンは拒絶したため、姉妹関係は悪化するようになった。 別の問題も浮上した。1689年、アンの支持者(マールバラ伯夫妻とサマセット公チャールズ・シーモアを含む)が王妹アンに終身年金として年額5万ポンド支払うよう議会に要求したのである。ウィリアム3世は王室歳費から同じ額を支払ってアンを従属させ続けようと画策したが、サラに吹き込まれたアンはこれを拒絶した。王室費からの慈善でなく、議決された歳費を要求したのである。ただちに議会は年金を議決し、アンはサラの努力に感謝した。 サラがアンの側近として名前を挙げることはすなわち、メアリー2世がマールバラ伯夫妻を疎んじることにつながった。1692年、メアリー2世からサラの追放を命じられたアンは拒絶したため宮廷から閉め出されるかっこうとなり、ウィリアム3世もマールバラ伯から官職を取り上げたため、アンは親しいマールバラ伯夫妻、サマセット公夫妻らとサイオン・ハウス(現在はノーサンバランド公家の所有する邸宅)で過ごす日々を送った。 1694年にメアリー2世が天然痘で急死すると、ウィリアム3世はアンの国民的人気を無視するわけにいかず、彼女をセント・ジェームズ宮殿に居住することを許した。彼はマールバラ伯を公務に復帰させたが、サラの影響力下にあるアンを政治の場に迎えず、自身が不在の際の摂政にも任命しなかった。王が国外へ旅行した際、次期王位継承予定者が摂政を務めるのが当然であった時代に異例のことだった。
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雌伏の時代
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「市川團十郎 (9代目)」の記事における「雌伏の時代」の解説
嘉永5年9月(1852年10月)将軍家に男子が生まれ長吉郎と名付けられたので、「長」の字をはばかり初代河原崎権十郎を襲名する。その2年後、兄の八代目 市川團十郎が大坂で自殺、この頃から次弟の権十郎がゆくゆくは「市川團十郎」を襲名することが期待されるようになる。そのため養父母の教育はさらに厳しいものになり、ある日ひどい頭痛で舞台を休もうとしていたところ、養父が「貴様は何だ、役者ではないか。役者が舞台へ出るのは、武士が戦場へ行くのと同じことだ。舞台へ行って死んでこい」と叱責されて無理矢理舞台に出されたこともあった。 その後、父の高弟だった四代目 市川小團次が後見人となる。しかし『三人吉三廓初買』のお坊吉三や、『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)の穂積新三郎などの大役を与えられても、立ち振る舞いが堅く科白廻しにも工夫がないので「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評された。当時将軍家に献上される茶壺を護衛する役人の空威張りは巷では笑いの種だったが、権十郎はその役人よりもなお空威張りに見えたことを皮肉ったものである。兄の当たり役『与話情浮名横櫛』(源氏店)の与三郎を勤めれば、外見は兄に似ていたが科白が重々しくて不評。『勧進帳』の弁慶を勤めれば、芝居が未熟だと小團次にこっぴどく叱られる。散々の酷評に次ぐ酷評で、本人も嫌気して芸が伸び悩んだ。 明治元年(1868年)秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。そのときに聞いた養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという。そんな不幸の中で相続した河原崎座の座元という重責をこなし、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名する。 しかし4年後には妻の甥にあたる河原崎蝠次郎に八代目を譲り、自らは河原崎三升を名乗る。翌 1874年(明治7年)には非業の死を遂げた養父の遺志を継いで、安政2年(1855年)の失火全焼以後20年来絶えていた河原崎座を芝新堀町に再興。これを養家への置き土産に実家の市川宗家に戻り、同年七月、37歳のとき、九代目 市川團十郎を襲名した。河原崎座での当月の披露演目は、「新舞台巌楠」の備後三郎、和田正遠、楠木正成三役に、「袖浦恋紀行」の里見主膳、奴和平二役、興行半ばより「一谷嫩軍記」熊谷直実。襲名後に初めて東京で家伝来の歌舞伎十八番物を演じたのは、翌明治8年(1875年)10月、新堀座と改名した河原崎座での「勧進帳」弁慶。
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