雌伏のときとは? わかりやすく解説

雌伏のとき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:28 UTC 版)

蔣介石」の記事における「雌伏のとき」の解説

陳其美死後まもない1916年6月6日袁世凱病没北京政府では北洋軍閥内部対立発生し各地軍閥割拠した北京政府実権掌握したのは安徽派軍閥国務総理首相)に就任した段祺瑞であったが、段は中華民国臨時約法破棄し旧国会の回復反対した。孫文雲南広西軍閥と提携し、段に反対する旧国会議員とともに広州入り1917年9月広東軍政府樹立して大元帥就任したかくして北京政府広東軍政府南北対立いわゆる護法戦争始まった。しかし、孫文は独自の軍事的基盤脆弱で、広東軍政府雲南広西軍閥の唐継堯陸栄廷らによって左右された。ことに軍政府軍事総代表となった陸栄廷地盤広西孫文影響力拡大するのを恐れ孫文追放を図るようになった孫文は彼ら軍閥への対抗手段として、蔣介石自分膝下招いたのである1918年3月2日孫文からの電報受け取った蔣介石広東へと向かった孫文は蔣を広東軍総参謀部作戦主任任命した。蔣は広東第一軍総司令陳炯明行動を共にし、孫文軍事力支えることとなったその後広東軍の一部部隊率いて出陣し北京政府軍と交戦した5月孫文唐継堯陸栄廷との対立敗れ上海引退することになったが、上海へ途上孫文は蔣と面会した。このとき蔣は交戦であったが、蔣が部下と共に前線戦い率先して野砲撃ち照準合わせたところへ的確に命中させていくのを見て孫文蔣介石軍事的才能評価した蔣介石孫文失脚したことを受けて7月一度職を辞したが、陳炯明度重なる招請によって、9月には復職した参謀部勤務1919年7月まで続いたこの間1918年9月から11月までは前線北京政府軍との戦い直接指揮したが、蔣介石指揮統率広東軍にも北京政府軍にも注目された。ただし、「有能な参謀作戦立案優れ、兵を率いて先頭で戦う軍人としての評価得たものの、それほど全国に名を知られたわけでなかった。なお、1919年10月10日中華革命党中国国民党改組しており、蔣介石もその党員になっている蔣介石陳炯明の下で働き将兵への教育施した。しかし、孫文思想を兵に語ろうとする蔣とそれを許さない陳との間で齟齬生まれ、蔣は陳に不信感を抱くようになった結局、蔣は陳の下を去り上海戻った。そして同じく上海にいた孫文の下に出入りをする一方証券取引所資金の調達勤しむ生活へと戻ったのである1920年上海に在った孫文陳炯明命じて権力奪還図った9月陳炯明率い広東軍は広州進攻した。しかし、雲南派広西派軍隊苦戦し予定よりも広州制圧遅れた。そこで蔣介石陳炯明の下に派遣された。蔣介石すぐさま作戦練り上げ、自ら陣頭指揮当たった10月26日広東軍は広州制圧孫文11月広州帰還し第二次広東軍政府樹立して再び大元帥就任した蔣介石はしばらく陳炯明の下にいたが、陳が軍事戦略独断決めるようになり、さらには広東軍政府の他の部隊軍事的に牽制するうになると、陳への不信感増大しついには上海去って孫文に陳に対す不信感訴えと共に実家奉化県渓口鎮に戻った。この時期胡漢民書き送った手紙には、広東軍政府政争嫌気差し人類社会のためという大きな目標に向かって進みたいとの焦り綴られている。 再び広東軍政府大元帥地位就いた孫文北伐目指すようになった孫文蔣介石広東に来るように要請したが、蔣介石断った1921年1月陳炯明は、孫文意向従い全国統一目指し進出していくので蔣介石中央軍司令官になってもらいたいという趣旨の手紙を蔣に送った。これを受け取った蔣は広東に赴き、孫文面会して全国統一方針確認した。そして陳炯明らと作戦計画討議したが、結局、陳には自己の基盤固め意思しかないこと、他の幕僚が陳への対抗意識しかもっていないことがわかると、蔣介石失望して再び渓口鎮に戻ったまた、蔣介石理解者である胡漢民広東去った蔣介石革命への情熱先行するあまり、陳炯明信頼するなど現実に対して正確な理解持たない孫文に対して不満を持つようになった3月には対日外交に頼る孫文政策批判し国内団結勧める手紙送ったが、孫文蔣介石諫言受け入れなかった。 1921年5月広東軍政府改組されて「中華民国政府」と称し孫文中華民国常大総統就任した。このとき孫文は非常国会で北伐案が認められたことに興奮し、これを電報上海にいた胡漢民蔣介石伝えた胡漢民上海から広東向かったが、蔣介石は動かなかった。 6月14日敬愛する母・王采玉病没苦労して自分育ててくれた母に報いるために、蔣介石渓口鎮での葬儀盛大に行い、母を記念して生地に武嶺小学校建設した蔣介石は母を追悼する一文を遺しており、それには「哀れは母を喪うよりも哀れなるはない」とある。孫文からは王采玉弔うとともに、すぐに広東戻ってきてほしいと書簡送られてきた。また、胡漢民汪兆銘など孫文閥の広東政府要人からも手紙電報催促された。仕方なく蔣介石広東出向いてみたものの、広東政府内部対立陸軍部長兼内務部長就任していた陳炯明態度怒り覚え、ごく短期間上海渓口鎮に戻り、母の供養称してそこから動くことは少なくなっていった11月23日には母の本葬執り行われ、その墓碑銘には孫文揮毫し、胡漢民汪兆銘碑文記した。 母の本葬から間もなく蔣介石三番目夫人迎える。上海実業家の娘、陳潔如である。上海蔣介石暮らしていた姚治誠とは慰謝料払って離縁となった12月5日結婚式挙げた蔣介石は、その後孫文忠実に従い、その北伐計画積極的に携わるうになる

※この「雌伏のとき」の解説は、「蔣介石」の解説の一部です。
「雌伏のとき」を含む「蔣介石」の記事については、「蔣介石」の概要を参照ください。

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