雌伏のとき
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陳其美の死後まもない1916年6月6日、袁世凱が病没。北京政府では北洋軍閥内部の対立が発生し、各地で軍閥が割拠した。北京政府の実権を掌握したのは安徽派軍閥で国務総理(首相)に就任した段祺瑞であったが、段は中華民国臨時約法を破棄し、旧国会の回復に反対した。孫文は雲南・広西軍閥と提携し、段に反対する旧国会議員とともに広州に入り、1917年9月、広東軍政府を樹立して大元帥に就任した。かくして北京政府と広東軍政府の南北対立、いわゆる護法戦争が始まった。しかし、孫文は独自の軍事的基盤が脆弱で、広東軍政府は雲南・広西軍閥の唐継堯や陸栄廷らによって左右された。ことに軍政府の軍事総代表となった陸栄廷は地盤の広西に孫文の影響力が拡大するのを恐れ、孫文の追放を図るようになった。孫文は彼ら軍閥への対抗手段として、蔣介石を自分の膝下に招いたのである。 1918年3月2日、孫文からの電報を受け取った蔣介石は広東へと向かった。孫文は蔣を広東軍総参謀部作戦科主任に任命した。蔣は広東軍第一軍総司令の陳炯明と行動を共にし、孫文の軍事力を支えることとなった。その後、広東軍の一部部隊を率いて出陣し、北京政府軍と交戦した。5月、孫文は唐継堯や陸栄廷との対立に敗れ、上海に引退することになったが、上海への途上で孫文は蔣と面会した。このとき蔣は交戦中であったが、蔣が部下と共に前線で戦い、率先して野砲を撃ち、照準を合わせたところへ的確に命中させていくのを見て、孫文は蔣介石の軍事的才能を評価した。蔣介石は孫文が失脚したことを受けて7月に一度職を辞したが、陳炯明の度重なる招請によって、9月には復職した。参謀部勤務は1919年7月まで続いた。この間1918年9月から11月までは前線で北京政府軍との戦いを直接指揮したが、蔣介石の指揮や統率は広東軍にも北京政府軍にも注目された。ただし、「有能な参謀。作戦立案に優れ、兵を率いて先頭で戦う軍人」としての評価を得たものの、それほど全国に名を知られたわけでなかった。なお、1919年10月10日に中華革命党は中国国民党に改組しており、蔣介石もその党員になっている。 蔣介石は陳炯明の下で働き、将兵への教育を施した。しかし、孫文の思想を兵に語ろうとする蔣とそれを許さない陳との間で齟齬が生まれ、蔣は陳に不信感を抱くようになった。結局、蔣は陳の下を去り、上海に戻った。そして同じく上海にいた孫文の下に出入りをする一方、証券取引所で資金の調達に勤しむ生活へと戻ったのである。 1920年、上海に在った孫文は陳炯明に命じて権力奪還を図った。9月、陳炯明率いる広東軍は広州へ進攻した。しかし、雲南派、広西派の軍隊に苦戦し、予定よりも広州制圧が遅れた。そこで蔣介石が陳炯明の下に派遣された。蔣介石はすぐさま作戦を練り上げ、自ら陣頭指揮に当たった。10月26日、広東軍は広州を制圧。孫文は11月に広州へ帰還し、第二次広東軍政府を樹立して再び大元帥に就任した。蔣介石はしばらく陳炯明の下にいたが、陳が軍事戦略を独断で決めるようになり、さらには広東軍政府の他の部隊を軍事的に牽制するようになると、陳への不信感が増大し、ついには上海に去って孫文に陳に対する不信感を訴えると共に、実家の奉化県渓口鎮に戻った。この時期、胡漢民に書き送った手紙には、広東軍政府の政争に嫌気が差し、人類社会のためという大きな目標に向かって進みたいとの焦りが綴られている。 再び広東軍政府大元帥の地位に就いた孫文は北伐を目指すようになった。孫文は蔣介石に広東に来るように要請したが、蔣介石は断った。1921年1月、陳炯明は、孫文の意向に従い、全国統一を目指して進出していくので蔣介石に中央軍の司令官になってもらいたいという趣旨の手紙を蔣に送った。これを受け取った蔣は広東に赴き、孫文と面会して全国統一の方針を確認した。そして陳炯明らと作戦計画を討議したが、結局、陳には自己の基盤を固める意思しかないこと、他の幕僚が陳への対抗意識しかもっていないことがわかると、蔣介石は失望して再び渓口鎮に戻った。また、蔣介石の理解者である胡漢民も広東を去った。蔣介石は革命への情熱が先行するあまり、陳炯明を信頼するなど現実に対して正確な理解を持たない孫文に対して不満を持つようになった。3月には対日外交に頼る孫文の政策を批判し、国内の団結を勧める手紙を送ったが、孫文は蔣介石の諫言を受け入れなかった。 1921年5月、広東軍政府は改組されて「中華民国政府」と称し、孫文は中華民国非常大総統に就任した。このとき孫文は非常国会で北伐案が認められたことに興奮し、これを電報で上海にいた胡漢民や蔣介石に伝えた。胡漢民は上海から広東に向かったが、蔣介石は動かなかった。 6月14日、敬愛する母・王采玉が病没。苦労して自分を育ててくれた母に報いるために、蔣介石は渓口鎮での葬儀を盛大に行い、母を記念して生地に武嶺小学校を建設した。蔣介石は母を追悼する一文を遺しており、それには「哀れは母を喪うよりも哀れなるはない」とある。孫文からは王采玉を弔うとともに、すぐに広東に戻ってきてほしいとの書簡が送られてきた。また、胡漢民や汪兆銘など孫文閥の広東政府の要人からも手紙や電報で催促された。仕方なく蔣介石は広東に出向いてみたものの、広東政府内部の対立や陸軍部長兼内務部長に就任していた陳炯明の態度に怒りを覚え、ごく短期間で上海や渓口鎮に戻り、母の供養と称してそこから動くことは少なくなっていった。11月23日には母の本葬が執り行われ、その墓碑銘には孫文が揮毫し、胡漢民や汪兆銘も碑文を記した。 母の本葬から間もなく蔣介石は三番目の夫人を迎える。上海の実業家の娘、陳潔如である。上海で蔣介石と暮らしていた姚治誠とは慰謝料を払って離縁となった。12月5日に結婚式を挙げた蔣介石は、その後は孫文に忠実に従い、その北伐計画に積極的に携わるようになる。
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