雌伏の時に結実した京極派和歌
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「玉葉和歌集」の記事における「雌伏の時に結実した京極派和歌」の解説
永仁6年(1298年)に京極為兼が佐渡に流刑になり、伏見天皇の譲位と後伏見天皇の即位、そして大覚寺統の邦治親王が皇太子となり、大覚寺統に政権が交代する流れとなった。これまで順調であった持明院統にとって試練の時代が始まったが、和歌の革新を主導していた為兼の不在にも関わらず、伏見上皇、永福門院を中心とした宮廷グループは頻繁に歌合を催し、為兼の主張した「心の絶対的尊重」、「言葉の完全な自由化」という理念に基づく和歌の完成を目指した。佐渡に流刑中の為兼も、京都で行われた持明院統宮廷グループの歌合記録の送付を受け、批評を行っていたと考えられている。伏見上皇、永福門院を中心とした持明院統宮廷グループは、上皇、女院以外は少数の廷臣と女房のみで構成された閉鎖的なグループであり、不遇の時期、閉鎖的な少人数間の切磋琢磨によって京極派の歌風は次第に磨かれていくことになる。 正安3年(1301年)には、後伏見天皇の譲位、後二条天皇の践祚により、大覚寺統の後宇多上皇が治天の君となった。その後、持明院統、大覚寺統は後二条天皇の皇太子を誰にするかで争い、双方とも鎌倉幕府に激しく働きかけたが、幕府は持明院統の後伏見天皇の弟である富仁親王を選び、皇太子となった。政権を失った伏見上皇らは持明院統の人たちは、富仁親王の即位、政権の座への復帰を目指すことになる。 乾元2年(1303年)閏4月、鎌倉幕府の赦免により、京極為兼は流刑地の佐渡から京へ戻った。為兼の帰京直後の乾元2年閏4月29日(1303年6月15日)には、伏見上皇、後伏見上皇、永福門院らが参加し、為兼を和歌師範とした歌合が催された。この歌合で、伏見上皇、永福門院らは実に見事な和歌を詠んでおり、自らの目で見、感じたことが心に響く中で生まれた言葉で歌を詠むという京極派の和歌は、突如として見事に花開いた。内容的にはむしろ師範である為兼の和歌が遅れをとっており、進境著しい同志たちの姿を目の当たりにした為兼自身も、更に和歌に精進していくことになる。乾元2年閏4月29日歌合の後、為兼は持明院統の和歌師範として精力的に活動していく。 ところで大覚寺統の治世となった直後の正安3年(1301年)、二条為世は後宇多上皇から勅撰和歌集の撰集の下命を受けていた。この和歌集は『新後撰和歌集』と名づけられ、京極為兼の帰京後の嘉元元年12月19日(1304年1月26日)に奏覧された。奏覧前日、為兼は後宇多上皇の御所に参上し、上皇の側近を通じて為世の撰集について、能力がないのにも関わらず撰者父子の歌を多く撰びすぎであり、和歌の奥義を極めた自分の歌が少なすぎるとの抗議を上皇に伝えるよう依頼した。当時の歌壇の実情から見て、新後撰和歌集の歌数は二条為世、京極為兼ともに妥当な線であったと考えられるが、為兼としては自己の立場を強くアピールすることが必要であったと考えられる。 京極為兼の帰京後、持明院統宮廷の京極派和歌は高揚期を迎えた。和歌師範でありながら他の京極派メンバーよりも実作で遅れを取った感があった為兼も、嘉元年間(1303年 - 1305年)には見事な和歌を詠むようになった。こうして京極派和歌はようやく確立期を迎えることができた。そのような中、伏見上皇は後二条天皇の譲位と自らの皇子である皇太子富仁親王の即位を目指し、鎌倉幕府への働きかけを強めた。上皇の股肱の臣であった為兼は、幕府への働きかけの中核を担っていたと推測されている。またこの間、京極為兼は挫折を余儀なくされた永仁勅撰の議のリベンジを果たすべく、撰集作業を進行させていたと考えられている。そして徳治3年8月25日(1308年9月10日)、後二条天皇が崩じ、翌日、皇太子富仁親王が践祚した。伏見上皇が治天の君の座に復帰して待望の持明院統の世となり、今度こそ勅撰和歌集撰集を成し遂げようとする中、為兼は和歌宗家である二条為世と激突することになる。
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