不遇の時期とは? わかりやすく解説

不遇の時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:08 UTC 版)

ニコライ・ロスラヴェッツ」の記事における「不遇の時期」の解説

ロスラヴェッツ死後間もなく、その住居が「プロレタリア音楽家同盟」の元同人によって掻き回されて、多くの手稿が没収された。幸運にも、未亡人多くの手稿を隠しおおせた。これらの原稿その後ロスラヴェッツ未亡人からソ連中央文芸資料館現在のロシア国立文芸資料館前身)に譲渡された。ロスラヴェッツ愛弟子P.テプロフもいくつかの手稿保管していた。それらは現在、グリンカ国立中音楽博物館所蔵されている。テプロフによるとロスラヴェッツ死後その敵対者ロスラヴェッツの手稿をあさっていくつか破棄したという。 1967年に、作曲家の姪エフロシーニャ・ロスラヴェッツが、おじの名誉回復向けて最初の行動起こした。エフロシーニャのお蔭でロスラヴェッツ政治的な抑圧屈しなかったことが明らかにされた。この重要な第一歩は、ロスラヴェッツが「拘束され人民の敵」の一員であることを口実にしてロスラヴェッツ作品の上演を拒否することが正当化されるという情勢改善するには至らずロスラヴェッツ作品発禁状態であった1967年には、グリンカ博物館の職員ゲオルギー・キルコルが、エフロシーニャ・ロスラヴェッツが博物館利用者証を入手することを拒否した。キルコルは、「ロスラヴェッツ人民にとっては余所者だ」と言い切り、「シオニズムにかかずらっている」となじった。この突慳貪非難は、ロスラヴェッツ親友ソ連仇敵であったレオニード・サバネーエフユダヤ音楽擁護者であり、ソ連現代音楽協会もまたユダヤ人作曲家擁護したという事実が元になっている。1970年代後半には、親戚イスラエル建国者の一人がいるというだけの理由で、ロスラヴェッツ研究家のマリーナ・ロバノヴァも「シオニズム活動家」として非難され処断された。1967年には、ソ連作曲家同盟主要な幹部であったヴァーノ・ムラデリとアナトーリー・ノヴィコフに加えて、同同盟首席ティホン・フレンニコフが、エフロシーニャ・ロスラヴェッツとの面会拒んでいる。30年もの間、ロスラヴェッツの名は音楽事典から抹殺されソ連楽書においては多に言及されることがなかった。ペレストロイカ始まってからでさえ、音楽学者は「ロスラヴェッツ作品は、それが書かれ五線譜ほどの価値もない」といった否定的な評価し知らされていなかった。 ロスラヴェッツの名は、1978年になって否定的な文脈の中でソ連音楽事典再登場した。ロスラヴェッツ対す極めて否定的な当局態度は、次のような論調にも看取される。即ち、「ロスラヴェッツ我らの敵だ」「ロスラヴェッツという作曲家は、その作品書き付けられた紙ほどの価値もない」「ロスラヴェッツの墓を破壊せよ」などである。 西側では、デトレフ・ゴヨヴィ(1934年2008年)が長きわたってロスラヴェッツ擁護する論陣張った。ゴヨヴィはその活動ゆえに、ソ連作曲家同盟役員の手引きによって度々フレンニコフ個人攻撃受けただけでなく、ロスラヴェッツ白眼視する連中やその同類加えて音楽雑誌ソ連邦音楽』からも攻撃された。1989年までゴヨヴィは、「好戦的な反共主義者」としてペルソナ・ノン・グラータ扱いであった。あるジャーナリストが、ソ連ジャーナリストにゴヨヴィの論文写し送ったところ、ソ連官憲によって押収されている。ゴヨヴィはソ連邦ビザ取得することが認められていなかった。結果としてゴヨヴィは、必ずしも正し情報含んでいるとはいえない二次資料頼りに、研究せざるを得なかった。例えばゴヨヴィの出版物いくつかは、ロスラヴェッツを「ウクライナ系」の出自とするなどの憶測含まれている。それらの当て推量は、他の執筆者によって無批判複写されたために、ロスラヴェッツについてあれやこれや神話が広まる土台となった1980年12月27日にマルク・ミルマンの室内楽愛好会において、マリーナ・ロバノヴァの司会による演奏会が行われ、そ一部ロスラヴェッツ作品特集あてられた。エディソン・デニソフによると、ソ連作曲家同盟指導者たちが、ロスラヴェッツ作品のみの演奏会禁止したからだという。ロバノヴァが、1983年保管資料基づいてロスラヴェッツ独自の理論的な観念についての最初の出版物を世に問うた後、参加禁止されいながら1984年ミラノ国際会議現代音楽イタリア語: Musica nel nostro tempo)」において、ロスラヴェッツ音楽理論体系について講演を行うと、ソ連作曲家同盟牛耳る役員は「西側との不法な接触」ゆえにロバノヴァを非難しモスクワ音楽院はロバノヴァの解雇だけでなく、ロバノヴァの学位調査権剥奪をも企てた間もなく当局はロバノヴァに対し報復措置として精神医学用いて反抗的な異常者決め付けようとした。

※この「不遇の時期」の解説は、「ニコライ・ロスラヴェッツ」の解説の一部です。
「不遇の時期」を含む「ニコライ・ロスラヴェッツ」の記事については、「ニコライ・ロスラヴェッツ」の概要を参照ください。

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