不遇の時期
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「ニコライ・ロスラヴェッツ」の記事における「不遇の時期」の解説
ロスラヴェッツの死後間もなく、その住居が「プロレタリア音楽家同盟」の元同人によって掻き回されて、多くの手稿が没収された。幸運にも、未亡人が多くの手稿を隠しおおせた。これらの原稿はその後ロスラヴェッツ未亡人からソ連中央文芸資料館(現在のロシア国立文芸資料館の前身)に譲渡された。ロスラヴェッツの愛弟子P.テプロフもいくつかの手稿を保管していた。それらは現在、グリンカ国立中央音楽博物館に所蔵されている。テプロフによるとロスラヴェッツの死後その敵対者がロスラヴェッツの手稿をあさって、いくつかを破棄したという。 1967年に、作曲家の姪エフロシーニャ・ロスラヴェッツが、おじの名誉回復に向けて最初の行動を起こした。エフロシーニャのお蔭で、ロスラヴェッツが政治的な抑圧に屈しなかったことが明らかにされた。この重要な第一歩は、ロスラヴェッツが「拘束された人民の敵」の一員であることを口実にしてロスラヴェッツ作品の上演を拒否することが正当化されるという情勢を改善するには至らず、ロスラヴェッツの作品は発禁状態であった。1967年には、グリンカ博物館の職員ゲオルギー・キルコルが、エフロシーニャ・ロスラヴェッツが博物館の利用者証を入手することを拒否した。キルコルは、「ロスラヴェッツは人民にとっては余所者だ」と言い切り、「シオニズムにかかずらっている」となじった。この突慳貪な非難は、ロスラヴェッツの親友でソ連の仇敵であったレオニード・サバネーエフがユダヤ音楽の擁護者であり、ソ連現代音楽協会もまたユダヤ人作曲家を擁護したという事実が元になっている。1970年代後半には、親戚にイスラエルの建国者の一人がいるというだけの理由で、ロスラヴェッツ研究家のマリーナ・ロバノヴァも「シオニズムの活動家」として非難され処断された。1967年には、ソ連作曲家同盟の主要な幹部であったヴァーノ・ムラデリとアナトーリー・ノヴィコフに加えて、同同盟の首席ティホン・フレンニコフが、エフロシーニャ・ロスラヴェッツとの面会を拒んでいる。30年もの間、ロスラヴェッツの名は音楽事典から抹殺され、ソ連の楽書においては滅多に言及されることがなかった。ペレストロイカが始まってからでさえ、音楽学者は「ロスラヴェッツの作品は、それが書かれた五線譜ほどの価値もない」といった否定的な評価しか知らされていなかった。 ロスラヴェッツの名は、1978年になって否定的な文脈の中でソ連の音楽事典に再登場した。ロスラヴェッツに対する極めて否定的な当局の態度は、次のような論調にも看取される。即ち、「ロスラヴェッツは我らの敵だ」「ロスラヴェッツという作曲家は、その作品が書き付けられた紙ほどの価値もない」「ロスラヴェッツの墓を破壊せよ」などである。 西側では、デトレフ・ゴヨヴィ(1934年~2008年)が長きにわたってロスラヴェッツを擁護する論陣を張った。ゴヨヴィはその活動ゆえに、ソ連作曲家同盟の役員の手引きによって度々フレンニコフの個人攻撃を受けただけでなく、ロスラヴェッツを白眼視する連中やその同類に加えて、音楽雑誌『ソ連邦の音楽』からも攻撃された。1989年までゴヨヴィは、「好戦的な反共主義者」としてペルソナ・ノン・グラータ扱いであった。あるジャーナリストが、ソ連人ジャーナリストにゴヨヴィの論文の写しを送ったところ、ソ連の官憲によって押収されている。ゴヨヴィはソ連邦のビザを取得することが認められていなかった。結果としてゴヨヴィは、必ずしも正しい情報を含んでいるとはいえない二次資料を頼りに、研究せざるを得なかった。例えばゴヨヴィの出版物のいくつかは、ロスラヴェッツを「ウクライナ系」の出自とするなどの憶測が含まれている。それらの当て推量は、他の執筆者によって無批判に複写されたために、ロスラヴェッツについてあれやこれやの神話が広まる土台となった。 1980年12月27日にマルク・ミルマンの室内楽愛好会において、マリーナ・ロバノヴァの司会による演奏会が行われ、そ一部はロスラヴェッツ作品の特集にあてられた。エディソン・デニソフによると、ソ連作曲家同盟の指導者たちが、ロスラヴェッツ作品のみの演奏会を禁止したからだという。ロバノヴァが、1983年に保管資料に基づいてロスラヴェッツ独自の理論的な観念についての最初の出版物を世に問うた後、参加を禁止されていながら1984年のミラノの国際会議「現代音楽(イタリア語: Musica nel nostro tempo)」において、ロスラヴェッツの音楽理論体系について講演を行うと、ソ連作曲家同盟を牛耳る役員は「西側との不法な接触」ゆえにロバノヴァを非難し、モスクワ音楽院はロバノヴァの解雇だけでなく、ロバノヴァの学位と調査権の剥奪をも企てた。間もなく当局はロバノヴァに対し、報復措置として精神医学を用いて反抗的な異常者と決め付けようとした。
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