不遇の日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 02:25 UTC 版)
10月12日、投降した凌霜隊は郡上藩預けとなり、国許へ護送されることとなった。 しかし江戸から伊勢へ向かう途中に船が難破し、贄浦に上陸、11月17日、凌霜隊は郡上八幡城下に到着した。このとき既に白石弦之助・山片俊三ら10名(8名の戦死者と2名の行方不明者)が死亡しており35名だった。 藩では元隊士を脱藩の罪人として扱い、赤谷の揚屋へ監禁した。赤谷の揚屋は湿地に位置し、湿気が多く風通しも日当たりも悪く病気になる者も多かったため、場所の変更を何度も求めたが却下され続け、明治2年(1869年)5月になって慈恩禅寺の住職らを中心とする城下寺僧の嘆願により城下の長敬寺に移され、元隊員らの苦難は軽減された。茂吉には隊長としての責任から死罪を申し付けられた。 9月に新政府の命令により自宅謹慎となり、翌明治3年2月19日(1870年3月20日)、謹慎も解かれ、赦免された。また妙雲寺から「凌霜隊の機転によって塩原の妙雲寺は焼失を免れた」と感謝の言葉があった。郡上にある末寺の臨済宗妙心寺派鐘山慈恩護国禅寺(現八幡町島谷)へ妙雲寺のことについて郡上藩に対して本山としての礼を述べるようにと伝えてきたが、慈恩寺住職は「郡上では彼ら元隊士は罪人として幽閉されている」ということを伝えた。 茂吉も死罪取り止めで謹慎処分となっていたが、罪人のレッテル貼られていた元隊士達に対して周囲の態度は冷たく、謹慎解禁後、元隊士らの多くは郡上八幡を離れることになる。このとき元隊士は謹慎中に死去するものも少なかった。なお知藩事からの登用もあったが、茂吉ら元隊士達は断っている。
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