不遇と友情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:32 UTC 版)
「オーギュスト・コント」の記事における「不遇と友情」の解説
華々しい業績を上げていくコントは、幸福に恵まれなかった。 1832年、コントは年俸は2000フランでエコール・ポリテクニックの復習教師に任命され、1837年に年俸は3000フランで入試試験官として1851年まで勤務した。また塾で数学を教え、家庭教師の仕事にも従事し、3000フランを稼いでおり、また雑収入を合わせて1万フランの収入をもつようになった。これにより、コントはようやく安定収入をえるが、せいぜい夫婦二人が切りつめて暮らせるぐらいの収入であったといわれる。 コントは教授職など自分の能力に合ったより高い地位を望んでいたが、コントの研究や学問構想は認められていなかったばかりか、総合科学者であったコントに対する専門家の評価は厳しかったのである。チャンスがやって来ては去るを繰り返すなかで、コントは陸軍大臣スールト元帥に面会して教授職への推薦を要望して面会したが結局、試みは失敗して復習教師や入試試験官という地位に甘んじることになった。 職業的大成に挫折したことに加えて、コントを苦しめたのは家庭問題であった。 その原因は妻カロリーヌの度重なる不貞である。彼女は夫の稼ぎの悪さを非難して事あるごとに喧嘩をし、1842年6月15日の大喧嘩では「庭つきの綺麗なアパートを与えてくれるならすぐに出て行く」と口にした。カロリーヌは一度ならず幾度(1826年、1833年、1838年、1842年の四回目は決定的別居)も家を空けて放蕩を重ねた。そのたびに大金を持って帰宅してコントの生活を支えた。コントの自尊心は傷つけられ、感情的に打ちひしがれることが多くなった。 また、カロリーヌは知的で純粋なコントとは異なり、世慣れした女性で、苦労性のコントと生き方が違っていた。二人は互いに理解し合い支えあえる関係を築けないまま、1842年に別れてしまう。ただし、二人はその後も手紙による連絡を取り続け、コントもカロリーヌを嫌いながらも別居中の生活費として毎年3000フランを支払っていた。 コントは、人生において理不尽な不遇の境遇におかれていたものの、著名な学者や知識人と交友を持った。 交流をもった著名人の一人がジョン・スチュアート・ミルである。1820年、早熟の天才ミルは14歳にしてフランスに渡り、サン=シモンやセイと交流している。彼は幼少期からコントの文献も読んでいたが、成人してからベンサム的な功利主義にしだいに疑問を抱いていく。ミルは自身が語る「精神的危機」に直面する中で、糸口をフランスの合理主義思想に探し始めていく。こうした経緯から、1841年『実証哲学講義』を執筆中のコントの思想にミルは夢中になっていき、11月8日にコント宛てに書簡を送付して二人は交流をもつ。思想的に立場がかなり異なる二人であったが人間的に理解しあうところが多く、コントがクロティルドを失った翌年に当たる1847年5月7日まで続けられた。 とりわけ、ミルが方法論的個人主義(ミクロ的手法)に立って人間性から心理学的に物事を捉えようとしたのに対して、コントは方法論的集合主義(マクロ的手法)の観点から人間を社会的単位から歴史的に考察しようとした。コントの立場は『論理学体系』(1843年)を執筆中のミルの思考方法にも影響を与えた。調査によって得られたデーターが既知の法則に適合するか否かを検証して既存の知識の修正を進めていく科学手法「逆演繹法」という方法論をミルにもたらした。こうした点から考えると不可解だが、コントはミルに「精神衛生上好ましくない」として自著の『実証哲学講義』や少数の古典文献以外は読まないほうが良いと薦めていた。1840年代になるとコントは経済学や心理学におけるミクロ理論を拒絶し始め、自分の世界観に閉じこもるようになっていたようだ。清水幾太郎氏によれば、レオン・ワルラスの一般均衡理論を知るほど長寿であれば、精神異常を起こしていたに違いないと言われている。20世紀以降、社会学はコントが構想した綜合化に基づくマクロ的なシステム論が提示される一方で、これに対置するように社会的行為理論などミクロ理論に基づく研究モデルが提起されている。コントの期待とは裏腹に、社会学の研究手法が個別領域を扱うようになって専門化しはじめ、この潮流が進行するに従って研究は領域社会学のかたちに特殊化・分化を遂げながら発展している。 そして、コントが柔軟性の欠如を表し、ミルと決定的に異なる立場をなしたのが女性観であった。 広く知られていることだが、ミルはエルヴェシウスの影響から男女平等と教育の万能性を主張する代表的な女性解放論者であった。これに対して、コントはヘーゲルの『精神現象学』に基づいた当時の内省的手法による心理学の風潮を拒絶していたのだが、コントは生理学や神経解剖学に強い関心を寄せており、フランツ・ヨーゼフ・ガルの脳機能局在論と骨相学の影響を受けていた。ガルは人間の先天的不平等、男女間の異質性を強調しており、コントは平等に対して懐疑的であったため、男女の不平等性を支持していたのである。コントによれば、「女性は子供同然である」という考え方が存在していた。ミルはコントの見解に反対を表明したが、コントはなかなか聞き入れようとしなかった。だが、コントの男性優位的な思考を変える出来事が後に起こっている。
※この「不遇と友情」の解説は、「オーギュスト・コント」の解説の一部です。
「不遇と友情」を含む「オーギュスト・コント」の記事については、「オーギュスト・コント」の概要を参照ください。
- 不遇と友情のページへのリンク