不遇と不和の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 05:41 UTC 版)
「カルロス・サインツ」の記事における「不遇と不和の時期」の解説
1993年、サインツはランチア陣営へ移籍し、イタリアのプライベートチーム、ジョリークラブから出場した。しかし、ワークス活動を縮小し、マシン開発を担っていたアバルトが撤退したため、戦闘力向上はおろか、信頼性も大幅に低下したデルタ・HFインテグラーレではタイトル争いに絡めず、成績は下降の一途を辿った。この年の最高位はアクロポリスとサンレモの2位。サンレモではワークス・フォードの脱落にも関わらず、プライベーターでフォードを駆るジャンフランコ・クニコに敗れた結果の2位だった。地元カタルーニャにおいても、初日の最初のステージでベストタイムを刻むが電気系のトラブルでリタイアした。 翌1994年はスバルに移籍した。前年に登場したインプレッサは、水平対向エンジンがもたらす低重心で抜群の操作性はライバルよりも抜きん出ており、テストを重ねるにつれ、サインツは勝てるマシンであることを確信する。序盤はピレリタイヤとのマッチングに苦心するも、ピレリの開発が進むと、アクロポリスでインプレッサの初勝利を記す。中盤以降はトヨタのオリオールとの熾烈なタイトル争いを繰り広げる。なかでも、この年のアルゼンチンはWRC史上、稀にみる秒差の戦いを繰り広げた名勝負であった。以降のラリーでもオリオールとの接戦は続き、タイトル争いは最終戦のRACまでもつれ込む。序盤にコースアウトして下位に沈むオリオールを尻目に、サインツは終盤までトップ3圏内でラリーを進めていたが、最終SSを走行中、路面に転がっていた材木を避け損ねてコースアウト。コース復帰を試みるも、山林のステージのために観客も少なく脱出に手こずり、ゴールするもタイムアウトとなった。その結果、タイトルはオリオールのものとなった。 1995年は開幕戦モンテカルロ、第3戦ポルトガルで勝利したものの、トレーニング中に負った右肩靭帯損傷で続くニュージーランドを欠場。このことがチームメイトであるコリン・マクレーとのタイトル争いに大きな影響を及ぼした。地元カタルニアではサインツを先頭に1-2フィニッシュするようチームオーダーが発動されたが、マクレーが最終日にタイムを逆転。結局、チームの説得によりマクレーが勝利を譲ったものの、後味の悪い結果となる。最終戦RACではチームオーダーが出されず、地元で勢いに乗るマクレーを前にまたもタイトルを逃した。 この年のタイトル争いは彼とプロドライブのボス、デビッド・リチャーズと間に決定的な溝を生んだ。サインツは古巣トヨタへの復帰を試みるが、トヨタはカタルーニャでのリストリクタースキャンダルで受けたペナルティで翌年のWRC参加を取り止めざるを得なくなったため、自身のスポンサー、レプソルのバックアップの下、フォードへの移籍を決断した。
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