不遇の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 05:36 UTC 版)
「アレクサンドル・スヴォーロフ」の記事における「不遇の死」の解説
スヴォーロフの大胆なアルプス越えは、ハンニバル以来のことと賞賛された。ロシア大元帥の地位が授与され、さらに凱旋行進を執り行うことを許された。1800年1月21日、スヴォーロフはサンクトペテルブルクに帰国した。しかし、パーヴェル1世は突如としてスヴォーロフから全ての地位と名誉を取り上げ、いわれのない罪を着せて軍から追放した。1800年5月18日、スヴォーロフはサンクトペテルブルクで亡くなった。上のような経緯のため、葬儀の参列者は、イギリス大使のウィットワース卿(英語版)、詩人のデルジャービン、他数人だけだった。遺体はアレクサンドル・ネフスキー大修道院に収められた。墓碑には「ここにスヴォーロフ眠る(Здесь лежит Суворов)」とだけ刻まれていた。 1801年3月にパーヴェル1世は暗殺され(パーヴェル1世暗殺事件(ロシア語版))、後にアレクサンドル1世がスヴォーロフの名誉を回復し、軍神マルスを模したスヴォーロフの彫像を建造してサンクトペテルブルクのマルス広場に置いた。 スヴォーロフの息子アルカディー(1784年-1811年)は、ロシア帝国の将軍として、ナポレオン戦争やオスマン帝国との戦いで活躍したが、皮肉なことに父が名声を高めたルムニク川で溺れて亡くなった。孫のアレクサンドル・アルカディエビチ(1804年-1882年)もまた、ロシア帝国の将軍として活躍した。
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