ランバートと『トミー』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 16:40 UTC 版)
「キット・ランバート」の記事における「ランバートと『トミー』」の解説
ネピア=ベルは、父・コンスタントの不遇の死がランバートに大きな影響を与え、そして父の名誉を回復することを何よりも所望していたとしている。コンスタント人生最後の作品となったバレエ「ティレジアス」は批評家から軽蔑され、彼は失意の中で死亡したが、ランバートにとってはロックオペラ『トミー』を成功させることこそが父の名誉を挽回する何よりの機会と考えていた。『トミー』が全英2位、全米4位の大ヒット作となり、批評家筋からも絶賛されたことにより、ランバートは父を軽蔑した世間への復讐を果たしたのだとネピア=ベルは語っている。 ランバートは『トミー』のレコーディングを始めた1968年当時から映画化の構想を温めており、独自に「TOMMY 1914-1984」と題した脚本を書き進めていた。ユニバーサル・ピクチャーズと映画化の契約も進んでいたが、彼の脚本が一貫性に欠くとして、結局ユニバーサルからの資金提供の話は白紙となってしまう。1972年、バンドに『トミー』のオーケストラ・バージョンを制作したいというオファーが来た時、タウンゼントはすぐさまゴーサインを出したが、これにランバートは深く傷ついたという。アルバム『トミー』製作時、ランバートはオーケストラを起用することを提案していたが、ライブでも再現可能なものにしたいと考えていたメンバーはこれを拒否していたためである。しかし、このオーケストラ版とそれに伴うチャリティ・ライブが評判を呼び、『トミー』映画化を実現させる一押しとなった。 ヘロイン漬けになりまともに仕事もこなせなくなった1973年の段階においても、ランバートは自身が映画『トミー』のメガホンを取ることを望んでいたという。しかし、スタンプとカービシュリーが自分を差し置いて、スティグウッドと『トミー』映画化の交渉をしていたことを知ると、彼はその交渉をつぶそうとしたという。『トミー』映画化のために最も尽力したランバートだが、実際の映画ではエンドロールに小さく名前が載せられるだけに終わった。
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