描かれた名所旧跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 08:34 UTC 版)
「隅田川両岸景色図巻」の記事における「描かれた名所旧跡」の解説
[全画面表示] 隅田川両岸景色図巻に描かれた名所旧跡(描かれた当時とは場所を変えたものもある。)1 1.両国橋2 2.回向院3 3.駒止石4 4.柳橋 (神田川)5 5.首尾の松6 6.駒形堂7 7.吾妻橋8 8.浅草寺9 9.待乳山聖天宮10 10.今戸橋11 11.源森橋12 12.隅田公園(左岸)13 13.三囲神社14 14.弘福堂15 15.長命寺 (墨田区)16 16.牛嶋神社17 17.隅田川神社18 18.木母寺19 吉原遊郭 図巻に描かれている名所旧跡のうち、以下の18か所が21世紀に現存する。 両国橋 – 1659年(万治2年)~1661年(寛文元年)頃に架橋された、隅田川で2番目に古い橋。火除地とされた橋詰は「両国広小路」と呼ばれ、仮設の茶屋や芝居小屋が並んだ。 回向院 – 正式名称は「諸宗山無縁寺回向院」。1657年(明暦3年)「明暦の大火」で落命した10万人以上を回向し埋葬したことを起源とする。 駒止石 – 1631年(寛永8年)秋、台風の影響で隅田川が氾濫し、本所一帯に甚大な被害が生じた。被害状況を視察するため濁流に馬を乗りいれた旗本の豊後守忠秋が、馬を繋いだ場所の傍にあった石と伝わる。旧安田庭園内。 柳橋 (神田川) – 1697年(元禄10年)以降、幾度となく架け替えられている神田川の最下流に架かる橋。一帯はかつて東京屈指の花街として知られた。 首尾の松 – 吉原遊郭帰りの男衆が、蔵前の船着場から川面に松が枝を延ばす木陰で前夜の首尾を語り合ったことから、「首尾の松」と呼ばれた。跡地を示す碑文が残る。 駒形堂 – 628年(推古天皇36年)に宮戸川(隅田川)で漁をしていた兄弟の漁網に観音像がかかり、網元が祀ったことに由来するお堂。「こまんどう」と呼ばれる。 吾妻橋 – 1774年(安永3年)に架橋された「大川橋」の後継。大川橋は、江戸時代に隅田川に架けられた5本の橋のなかで、最後に架けられた。 浅草寺 –駒形堂と同じ由来をもち、金色の観音像であったとされる。正式名称は「金竜山浅草寺」。 待乳山聖天宮 – 浅草寺の子院で、595年(推古天皇3年)に一夜で地面が隆起して山となり、頂上に金色の竜が舞い降りた。その6年後、一帯は大干ばつに見舞われたが、大聖歓喜天が現れ人々を救ったため、これを祀った。 今戸橋 – 吉原遊郭への水路として多くの船が行き交い、船宿や料亭が立ち並んだ山谷堀の分岐点。永井荷風の『すみだ川』の舞台ともなった。 源森橋 - 隅田川に流れ込む北十間川の下流から2つめの橋。かつては無名だったが、下流にあったかつての源森橋が枕橋と改名されたのを機に、名前を譲り受けた。 隅田公園 – 江戸時代には、徳川家水戸藩下屋敷の小梅邸があった。1923年(大正12年)に関東大震災で焼失し、以後は公園として整備された。 三囲神社 – 文和年間(1352~1356年)に近江三井寺の僧侶源慶が土中から白狐の乗った翁像を見つけたところ、白狐が現れ神像の周りを3回回ったとの伝承に由来する。榎本其角の「雨乞いの句」碑が境内に建つ。 弘福寺 – 1674年(延宝2年)開山の禅寺。 長命寺 (墨田区) – 江戸幕府3代将軍・徳川家光の急病が快癒した伝承がある「長命の井戸」がある。 牛嶋神社 – 貞観年間(859年~879年)創建と伝えられる墨田区で最も古い歴史を持つ本所地区の総鎮守。北斎の時代にはもう少し北に鎮座したが、関東大震災後の隅田堤の拡張に伴い現在地に移転。 隅田川神社 – 1180年(治承4年)に平家追討の兵を挙げた源頼朝が、ここで亀に乗った水神を目撃して社殿を建立した。「水神社」の異名をもち、かつては多くの樹木に囲まれていた。 木母寺 – 12歳でこの地で不遇の死を遂げた少年・梅若丸の物語、謡曲『隅田川』などで知られる「梅若塚」(東京都旧跡指定)がある寺院。 1.両国橋(1935年絵葉書) 2.回向院 3.駒止石 4.柳橋 5.首尾の松跡碑 6.駒形堂 7.吾妻橋 8.浅草寺 9.待乳山聖天宮 10.今戸橋 11.源森橋(源兵衛橋) 12.墨田公園(左岸) 13.三囲神社 14.弘福寺 15.長命寺 16.牛嶋神社と隅田川 17.隅田川神社 18.木母寺 1846年の吉原遊郭
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