雌伏の時とは? わかりやすく解説

雌伏の時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)

劉淵」の記事における「雌伏の時」の解説

幼くして聡明なであったという。若い頃より学問志して上党出身漢人崔遊師事し経史経書史書)を広く学んだ。やがて武芸にも励むようになり、成長するにつれて並外れた能力身に着けるようになった当時匈奴諸部族魏王朝に服属して并州領内居住しており、左部・右部・南部北部中部五つ分けられていた(これを五部匈奴という)。その中で、父の劉豹は左部帥の役職に就き、左部匈奴統率する立場にあった咸熙年間264年 - 265年)、劉淵任子制度により朝廷から召喚命令受けたが、これは劉豹造反を防ぐための人質という意味合いもあった。これに従って郷里離れて洛陽入朝すると、時の権力者である司馬昭からは厚遇を受け、以降朝廷仕えようになったその後間もなく魏が滅んで西晋興るが、劉淵変わらず洛陽留められた。泰始年間265年 - 274年)の末、友人である王渾推薦により司馬炎武帝)と謁見する機会を得ると、語らい合ってその人となりを高く評価された。 279年春、父の劉豹没すると、朝廷の命により父の役職である左部帥を代行する事となり、洛陽離れて郷里である并州帰還した289年11月朝廷により北部都尉任じられた。在任期間中、刑法厳正に遵守してあらゆる悪行禁じ、財を重視せず施し好み誠意をもって人と交流した当時五部匈奴には数多く豪傑がいたが、彼らは劉淵の徳を慕って次から次へ訪れようになったまた、幽州冀州高名な儒学者学問に励む者も、数多く遠方より劉淵会いに来るようになった290年4月司馬炎崩御して子の司馬衷恵帝)が後を継ぐと、外戚楊駿事実上政権を担うようになった10月、その楊駿の命により、劉淵は建威将軍五部大都督に任じられ、漢光郷侯に封じられた。また、時期不明だ左賢王にも任じられている。こうして五部匈奴全体統括する立場にまで昇り詰めたものの、300年匈奴のある部族民が国境外へ逃走図った事により、劉淵連座により免官となってしまった。しばらくして、鄴城を鎮守する成都王司馬穎より招聘を受けると、劉淵はその要請に応じて復職果たし、兵を率いて鄴に移った司馬穎の上表により行寧朔将軍・監五部軍事任じられ、子の劉聡もまた積弩将軍に任じられた。

※この「雌伏の時」の解説は、「劉淵」の解説の一部です。
「雌伏の時」を含む「劉淵」の記事については、「劉淵」の概要を参照ください。

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