五年ものスランプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:38 UTC 版)
「モーリス・ルブラン」の記事における「五年ものスランプ」の解説
だが、順調かと思われた作家としてのキャリアにも1899年頃から陰がさし始める。恋人マルグリットの離婚調停がうまくゆかず、ルブランは心身ともに健康を損なっていた。加えて、「ジュルナル・デ・デバ」に掲載された短篇小説をまとめた「Les Lèvres jointes」が6月に発売されたものの売れ行きは芳しくなく、職業の面でも苦境に陥った。最後となるはずの訓練兵役も「消化不良と羸痩(るいそう)のため、1899年10月28日、パリ特別委員会により一時的な兵役免除となった」。さらに1900年10月5日には「ルーアンの特別委員会より、極度の羸痩と慢性胃病のため」、兵役義務を解かれている。 苦しい雌伏の時にありながらもルブランはニースやブルゴーニュのプーク=レ=ゾー村で温泉療養しつつ書き下ろしの小説を手掛け、1900年5月10日にはマルセル・プレヴォーならびにジュール・ルナール(「にんじん (小説)」の英訳に際し、妹ジョルジェットとその恋人モーリス・メーテルランクとともにルブランは翻訳者の仲介を手掛けていた)を推薦者としてフランス文芸家協会へ入会申請を行なっていた。この申請は無事10月29日に認められることとなる。1901年2月初頭に、書き下ろし自伝長編「L’Enthousiasme」がオランドルフ社より刊行される。これはルブランとしては相当の推敲と努力とを重ねた作品であった が、反響はさしてなく、初動部数も1000部程度と悲しむべき数字に収まった。この頃、ピエール・ラフィットが興した「Les Éditions Pierre Lafitte et Cie」社から女性向けファッション誌「Femina」への寄稿依頼を受け、1901年9月15日に「困難な選択」を発表。1902年6月からは「Les Yeux purs」の連載を始める。同年8月12日、マルグリットが長男クロードを極秘出産。また同時期に、かのアンリ・デグランジュの依頼を受け、「自動車・自転車」紙(のちに「自動車」紙に改名)に9月7日から短編の冒険・アクション小説を寄稿し始める。ルブランがそれまで書いてきた心理小説・純文学小説とは方向が異なるこれらの依頼を受けたのは単純に経済的な理由によるものであり(「ジル・ブラス」誌からの依頼は既に停止していた)、やはり彼としては渋々といった面が強かった。1903年、「ル・プティ・ジュルナル(英語版)」紙の付録「Le Petit Journal Illustré」に寄稿を始め、8月30日には中篇「シャンボン通りサークルの犯罪」を発表。「その題材はアルセーヌ・ルパンの『犯罪的な』冒険を予感させる」とジャック・ドゥルワールはこの作品について述べている。1904年6月、オランドルフ社から「自動車」紙発表作品を中心にした短編集「Gueule-rouge 80-chevaux」が出版。この作品は「それまでルブランが執筆してきた心理小説とルパンの冒険との接点として位置づけられる」と、ジャック・ドゥルワールは分析している。12月29日、マルグリットとエドワール・ウルマンの離婚がセーヌ県裁判所で成立。1905年1月24日、父エミールが逝去。享年75歳であった。
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