豊前国中津編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 03:15 UTC 版)
信長の後継者として名を馳せることとなった秀吉だったが、官兵衛は石田三成の妨害もあり次第に距離を置かれるようになっていた。1586年、羽柴軍は九州を平定。関白と豊臣姓を与えられた秀吉の命により黒田家は住み慣れた播磨を離れ、九州は豊前国中津に国替えとなる。約束を反故にされた地元領主の宇都宮家との軋轢により国替えは順風満帆には行かず、宇都宮家を滅ぼすという悲劇的選択を取らざるを得なくなる。 1590年、小田原征伐によって豊臣家による天下統一が実現する。秀吉は第二の正室となった茶々を溺愛し、筆頭茶頭であった千利休に切腹を命じるなど次第にかつての面影は見られなくなっていた。嫡子鶴松の死をきっかけに秀吉は明への進軍を号令、その足がかりとして朝鮮へ進軍することとなる。その中で官兵衛は三成の謀略により切腹の危機を迎えるが、出家し黒田如水と名を改めることで回避する。 1598年、秀吉が死去したことで雌伏の時を終えた関東八州の大大名、徳川家康が台頭する。全国の大名が家康と三成のどちらかに付く中で、官兵衛は人生最大にして最後の大勝負に出る。
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