豊前・豊後の戦いとは? わかりやすく解説

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豊前・豊後の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:52 UTC 版)

九州平定」の記事における「豊前・豊後の戦い」の解説

戸次川の戦い」も参照 天正14年4月15日毛利輝元に対して九州への先導役を命じた秀吉は、8月6日には吉田郡山城広島県安芸高田市)へ使い送り、輝元に九州出陣促した8月16日には輝元自身安芸国より、月末には小早川隆景伊予国より、吉川元春出雲国よりそれぞれ九州向けて進発した。 8月26日神田元忠(三浦元忠率いる3,000毛利先遣軍は、豊前門司城北九州市門司区)を出て島津方の高橋元種支城豊前小倉城北九州市小倉北区)を攻略しようとして進軍したが、大里北九州市門司区周辺高橋勢の伏兵苦しみ秋月種実攻撃もあって門司城引き返した。これは、秀吉方と島津方の最初交戦であった毛利軍到着により、西方から筑前攻略し大友方の城を一つずつ落とすことによって自領を拡大していこうとしていた島津側のもくろみは、見直しせまられた。 9月秀吉の命によって十河長宗我部両氏豊後出陣し大友氏合流した9月9日秀吉朝廷より豊臣姓を賜ったが、このころ秀吉陣営豊前国花尾城北九州市八幡西区)・広津城(福岡県築上郡吉富町)・時枝城大分県宇佐市)・宇佐城(宇佐市)、筑前国龍ヶ岳城(福岡県宮若市)を帰服させた。10月初め毛利輝元軍監黒田孝高叔父吉川元春小早川隆景ともなってようやく九州上陸し高橋元種小倉城賀来氏が守る豊前宇留津城(福岡県築上郡築上町宇留津)を攻撃した小倉城攻め当主輝元みずから指揮にあたり、元春・隆景も攻め手加わった隠居して元長に家督譲った吉川元春にとっては久しぶり合戦であった10月4日小倉城城兵元種本城である豊前香春岳城福岡県田川郡香春町)へと逃亡し陥落また、豊前馬ヶ岳城福岡県行橋市大谷字馬ヶ岳)、豊前浅川城(北九州市八幡西区浅川)、筑前剣ヶ岳城がそれぞれ落城して毛利勢に帰服した。ここにいたり、島津義久は、東九州進軍し大友宗麟本国である豊後直接攻撃し、そのことによって雌雄を決するという方針転じた九州乗り込んだ黒田孝高は、翌年予定されている秀吉本隊出馬に先だって敵対勢力除去するため、豊前および筑前地方島津武将対し寝返り調略おこなった。ただし、このときの孝高の調略仔細に検討した場合武将が完全に豊臣方寝返って旗幟鮮明にした事例はむしろ乏しいという。これについては、秀吉進軍の際、味方すれば本領安堵するが、敵対すれば攻撃するという降誘文書前もって送付することによって各自決断迫ったといわれており、日本史学者の小和田哲男氏は、「これは、秀吉本隊九州の地に足を踏みいれたとき、秀吉の威に恐れて帰服してくる形にしたからだと思われる」、「秀吉に花をもたせるための、官兵苦心演出だったのではないだろうか」と推測している。 10月22日島津義久は、すぐ下の弟の島津義弘大将とする兵三万余大軍肥後国阿蘇から九州山地越えて豊後侵攻させた。義弘軍は24日には豊後津賀牟礼城(大分県竹田市入田)を落とし、その城主だった入田宗和案内させて岡城竹田市竹田)を攻めた小松尾城(竹田市神原)、一万田城(大分県豊後大野市朝地町池田)などは島津氏したがったが、岡城城主志賀親次激し抵抗苦戦し高森城合戦志賀親次破られていた稲葉隊を大手門付近に抑えとして配置し本隊一時撤退余儀なくされてしまった。 義久一方で弟島津家久に一万余をつけて、日向表から北上して豊後侵攻する計画立てた家久軍は10月豊後松尾城[要曖昧さ回避](豊後大野市大野町宮迫)、豊後小牧城(豊後大野市緒方町野尻)を落とし10月23日大友氏の有力家臣である豊後栂牟礼城大分県佐伯市弥生)の佐伯惟定使者送ったが、惟定は多数支城築いたほか、佐伯湾海上警備もおこなうなど徹底して防備につとめ、11月4日には栂牟礼城出て堅田佐伯市堅田)で交戦島津勢の侵攻阻止した吉川元春島津方の宮山城を攻略したのち、小早川隆景とともに高橋元種支城豊前松山城福岡県京都郡苅田町)を攻め11月7日賀来専慶の守る宇留津城、15日にはさらに元種支城障子岳城(福岡県京都郡みやこ町)を攻撃した。元春はこの陣のなかで病没したが、吉川勢は元種本城香春岳城香春町)を20日間にわたって猛攻加え12月上旬元種降伏させた。これにより、豊前はその殆どが秀吉方に屈し豊後での戦線のこされた。12月1日秀吉諸国対し翌年3月期してみずから島津征討にあたることを伝え畿内および北陸道東山道東海道山陰道山陽道などの約37か国に対し、計20の兵を大坂集めるよう命令発したまた、小西隆佐建部寿徳吉田清右衛門尉・宮木長次の4名に軍勢30万人1年分の兵糧米軍馬2万疋の飼料調達命じ秀吉家臣石田三成・大谷吉継長束正家の3名を兵糧奉行任じて、その出納輸送にあたらせた。また、小西隆佐には、諸国船舶徴発して兵糧10万分の赤間関への輸送命じた豊後鶴賀城(大分市上戸次)は、宗麟の重臣利光宗魚居城であり、宗麟の2つ居城、すなわち府内の上原館(大分市上野丘西)と丹生島城大分県臼杵市臼杵)を繋ぐ要衝であった11月家久は宗嫡子利光統久の守る鶴賀城を攻めたが、当時、宗肥前向けて出陣しており手勢700ほどにすぎなかったため、統久は講和して父と連絡をとった。報せ受けたは兵を引き返し11月25日鶴賀城に戻って家久本陣夜襲をかけた。12月6日島津家久鶴賀城攻撃を開始しその日のうちに三の曲輪、二の曲輪攻め本曲輪1つをのこすのみとなった利光の軍はよく守り府内を守る宗麟嫡男大友義統対し後詰の兵として援軍差し向けるよう要請した。しかし、家久鶴賀城を府内攻め拠点にすべく昼夜を分かたず攻めつづけ、途中流れ矢にあたって戦死した。 このとき、府内城には、土佐長宗我部元親信親父子讃岐十河存保、そして軍監立場讃岐高松城主・仙石秀久らの四国勢およそ六千詰めていた。四国勢は、持久戦により島津軍食い止めておくよう指示されていたが、利光宗魚死によって、府内家久義弘双方から挟撃される危険が出てきたため、家久軍を戸次川食い止める必要にせまられ12月11日急遽出陣することとなった。 翌12月12日戸次川の戦いはじまった家久鶴賀城の囲み解いて撤退し坂原山に本陣をおいたが、その軍勢1万8,000ふくれあがっていた。ここで軍監仙石秀久は、長宗我部元親制止聞かず、また十河存保も秀久に同調したため、戸次川強行渡河作戦採用された。島津勢は身を伏せて川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走、兵の少なくなったところを家久主力寄せた。この戦いで豊臣方四国勢6,000のうち2,000失い、元親の嫡子である長宗我部信親十河存保などの有力武将を失う敗北喫した12月13日勢いづいた島津軍大友義統放棄した府内城陥落させて、隠居した大友宗麟の守る丹生島城臼杵城)を包囲した丹生島城は、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」名付けた仏郎機砲石火矢)の射撃もあり、島津軍勝利したその後北上する島津軍杵築城大分県杵築市)を攻めた木付鎮直激し抵抗を受け敗北豊後南部では大友家佐伯惟定がいったん島津方に奪われ諸城奪回し後方遮断したまた、志賀親次島津義弘軍を数度わたって破る戦い展開した肥後阿蘇から豊後攻め込んでいた島津義弘軍勢12月14日豊後山野城(竹田市久住)に移動して、そこで冬を越した家久豊後府内城で、当主島津義久日向国塩見城(宮崎県日向市塩見)で、それぞれ越年した

※この「豊前・豊後の戦い」の解説は、「九州平定」の解説の一部です。
「豊前・豊後の戦い」を含む「九州平定」の記事については、「九州平定」の概要を参照ください。

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